【早川書房】
『わたしたちが孤児だったころ』

カズオ・イシグロ著/入江真佐子訳 



 作品名はおろか、それがはたして小説だったのか、あるいは映画だったのか、ということさえも忘れてしまったのだが、ある作品のなかに描かれていた、今も印象に残っているシーンがある。それは、ある女性が男性に自分の死んだ父親のことを語るシーンなのだが、彼女の父親は、彼女の小さい頃に、サンタクロースを信じている彼女のために、あるクリスマスイヴの夜に自らサンタの扮装をし、自分の家の煙突から侵入して驚かせようとしたところ、誤って煙突から墜落して死亡してしまった、というエピソードだった。

 それはひとりの人間の死としては、あまりにも間抜けというか、お粗末な死に方だと言わざるを得ないものであるが、問題なのはその死に様が、まだ子どもだった彼女自身にどのような影響を与えることになったのか、という点である。彼女にしてみれば、最愛の家族のひとりであるはずの父親の死という現実と、それまで存在すると信じていたサンタクロースが、じつはこの世にはいないのだ、という現実を同時に突きつけられた事件であり、そこには滑稽さと悲しさという、相反する要素が混在している。滑稽であれば笑えばいい、悲しければ泣けばいい。だが、滑稽であると同時に悲しいという、複雑な心境を強要するような出来事に対して、小さな子どもにすぎない彼女が、はたしてどのように考え、そして受け入れればいいというのだろう。

 物事の真実というものが、ときにひどく残酷なものでもありうる、ということを、私たちはよく知っている。この世はけっして勧善懲悪でもなければ平和でもなく、私たちがあたりまえだと思いこんでいる平凡な日常は、じつはちょっとしたことで容易に崩れ去ってしまう、きわめて脆いものでしかない。だが、それでもなお、まだ幼く、誰かの庇護を必要とする子どものあいだだけは、そうした醜い現実ではなく、光あふれる理想を夢みていてほしい――私は今、誰かの親という立場にあるわけではないが、おそらくその立場になれば、きっとそんなふうに思うだろうという確信がある。

 そういう意味で、本書『わたしたちが孤児だったころ』の語り手であるクリストファー・バンクスが、イギリスという地で私立探偵を職業とし、それなりの名声を勝ち得ているという設定は、きわめて興味深いものがある。なぜなら、本書を読み進めていけばわかってくることであるが、クリストファーは探偵という仕事について「悪を根絶する」「悪を浄化する」という明確な責務を感じており、事件を解決することが、事件の関係者だけでなく一般の人々を、しいては社会そのものにも大きな影響を与えるものだという意識をもっているからである。

 ミステリーと探偵という役割について、多少何かを考えたことのある方であれば、あるいは感じていらっしゃることかもしれないが、探偵にしろ警察にしろ、彼らはけっして正義の味方というわけではない。事件が発生し、そのことで被害者の命が失われてしまった、という意味では、彼らの行動はすでに手遅れであり、彼ら自身も多かれ少なかれ、そのことを意識している。もちろん、犯人を見つけ出し、今以上の犠牲者が出るのを食い止めるという行為はけっして無駄ではないが、それでも物語のなかで殺人事件は往々にして連続殺人へと変貌するし、また仮に、事件の謎を推理して犯人を特定することができたとしても、探偵としてできることはそれだけである。被害者の心の痛みや、犯人の心の闇を取り除いたり、事件を未然に防いだりすることは、彼らの役目の範囲外のことなのだ。そしてそれが、ミステリーというジャンルのひとつの限界でもあるわけであるが、こと本書に関していえば、たしかにクリストファーが探偵として挑むべきひとつの事件が待ちかまえてはいるものの、本書の本筋はその事件がどのような謎を秘めているのか、というミステリー的な要素にあるわけではない。

 それゆえに、本書の前半部はクリストファーが対峙することになる事件とはまったく無縁のまま、物語が進行していくことになる。彼がまだ無名だった頃に、何とか著名な探偵と故意になろうとしていたこと、学生だった頃に、自分が探偵を目指していることを友人たちに知られてしまうのではないかとやきもきしていたこと、そして、探偵としての名声を得はじめた頃に知り合うことになる女性サラ・ヘミングズのこと――ただし、伏線めいたものは少しずつ読者に提示されてはいる。彼が小さい頃に上海で暮らしていたこと、そのときに知り合って、よく探偵ごっこをして遊んだ友人のアキラのこと、そして彼の両親のことと、彼が最終的に孤児となってイギリスの伯母に引き取られるそもそもの原因となった、両親の失踪のことなどが、クリストファーの回想という形で少しずつ見えてくるにしたがって、読者はしだいに、クリストファーが探偵を目指すようになったのが、いまだに解決されておらず、それゆえに今も行方の知れない両親の失踪を契機としていることや、彼がいまもなおその事件にとらわれており、そして両親の失踪の裏にどのような恐るべき陰謀が隠されていたのかについて、自らの手で解明してみせる機会を待ち望んでいることなどがわかってくるのである。

 このような段階を踏んだうえで、本書の後半になってクリストファーは、いよいよ一人前の探偵として両親を見つけ出すために、日中戦争が勃発し両軍が戦闘状態にある上海へと乗り込んでいく、という物語構造へとつながっていくことになるのだが、この後半部分において、物語の雰囲気がずいぶん変質していくのに気づくはずである。前半部では語り手として、あるいは探偵として、あくまで客観的な視点での描写に徹していたはずのクリストファーの語りが、まるで何かの妄想にとらわれているかのようなものとなっており、どこまでが客観的事実なのか、あるいは彼の主観的見解なのかの区別がかぎりなく曖昧になってしまうのである。そう、本書でクリストファーがかかわることになる事件とは、他ならぬ彼の両親の失踪に関する事件であるのだが、そもそも彼が子どもの頃に起こった両親の失踪が、なんらかの陰謀に巻き込まれたうえでの誘拐事件だったとして、それから十数年もの年月が経ってなお、同じ場所に幽閉されている、などということがありえるのだろうか、という疑問に、読者はたどりついてしまうのである。

 はたして、十数年前に両親の身に何が起こったのか、そしてふたりは今、どこにいるのか? それは、たしかにミステリー的なテーマではあるが、ここで重要となってくるのは、本書全体がクリストファーの一人称で語られる形式であり、それゆえに彼自身のとらえた客観的事実のなかに、しばしば彼が彼自身のために用意した虚構――それこそ、彼がアキラとともに何度も遊んだ探偵ごっこのような物語――が混じりこんでいる、という可能性である。そしてそれは両親の失踪にかぎらず、物語が終盤を迎えるにつれて、さまざまな点で見たくもない現実となって現われてくる。

 クリストファーの両親失踪事件を担当していた伝説的辣腕刑事だったクン警部は、今ではなかば乞食のようなみずほらしい姿に成りはてていた。かつて世界平和のためにおおいに貢献していたサー・セシルは、上海で博打浸りの生活をおくっていた。そして彼と結婚し、幸福な生活を過ごしているはずのサラは、生活そのものに疲れはてていた。人生はけっして当人の思うとおりにすすむわけではない、という厳しい現実――そうした事実は、まるで夢から醒めるかのように、クリストファーを少しずつ彼自身の住む幻想の世界から、まぎれもない現実の世界へと、彼自身をいざなう役目を負っている。そういう意味では、本書は純粋にミステリーというよりも、クリストファーという人物の一種の成長を描いた物語であり、同時に彼がそれまで夢みていた世界が、他ならぬ彼の両親の、親としてのやさしさから生まれたものであるという真実を知るための物語だとも言うことができる。

「わたしには子供時代が外国の地のようには思えないのですよ。わたしはずっとそこで生きつづけてきたのです。今になってようやく、わたしはそこから旅立とうとしているのです」

 世界はけっして一定の姿のまま止まっているわけではなく、常に変化しつづけるものであり、そして一度失われたものは、けっして元通りの形に戻ることはない。物事の真実は、たとえば本書の冒頭で述べたサンタクロースの扮装をして死んでしまった父親のように、ときに残酷でさえあるものであるが、それでもなお、彼女はいつか、自分の父親が何より自分を愛していたこと、そして、だからこそわざわざサンタクロースの格好で煙突からやってこようとしたのだという、もうひとつの、まぎれもない真実に気づくときが来るだろう。そういう意味では、本書は何よりも貴重な真実をさぐりあてたミステリーだと言っていいだろう。(2005.09.05)

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