【早川書房】
『さもなくば喪服を』

ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著/志摩隆訳 



 日本の国技といえば相撲であるが、スペインの国技といえば、闘牛である。闘牛といえば、日本でも沖縄地方で伝統的におこなわれる闘牛があるが、日本の闘牛が牛対牛のものであるのに対して、スペインの闘牛は人対牛でおこなわれる競技である。そして、おそらくスペインの闘牛ほど、およそ「競技」という言葉からかけ離れたものはないだろう。なぜなら、スペインの闘牛の最後は必ず死をもって決着となるからである。そしてその「死」とは、牛だけのものではなく、時には闘牛士にもふりかかってくる可能性のあるものであり、それゆえに闘牛は競技ではなく、文字通り命をかけて牛と戦う「闘技」なのだ。

 世の中にはさまざまな競技がある。人と人が戦うもの、あるいは動物どうし、昆虫どうしで戦わせるものは数多いが、そのなかでスペインの闘牛は人対牛、それも、ほとんど何の装備もしておらず、また何か乗り物に乗っているわけでもない、生身の人間と牛が戦うという、世界でも例を見ない変則的な闘技である。けっして何かを競うわけではない。少なくとも、闘牛士と戦うことになる牛の運命は、死以外にない。だが、その牛にしても、その角の一突きで闘牛士に致命傷をあたえる機会がある。この、見方によっては野蛮極まりない闘牛が、スペインという国の国技となっている事実を考えたとき、あらためて私たちは「なぜ」という疑問をもたざるを得なくなってくる。闘牛とは何なのか、そして、そんな闘牛に象徴されるスペインという国とは何なのか、という疑問を。

 本書『さもなくば喪服を』は、スペインの闘牛士である「エル・コルドベス」ことマヌエル・ベニテスの半生を描いたノンフィクションである。構成は大きくふたつに分けられており、ひとつは1964年5月にマドリードの闘牛場でおこなわれた、彼がはじめて正式の闘牛士と認められる重要な闘牛――その日彼が闘うことになる牡牛インプルシボとの戦いの様子とその結末を、臨場感溢れる筆致で描いたパート、もうひとつは、マヌエル・ベニテスが新進気鋭の闘牛士としてスペインじゅうの注目を集めるに至るまでの生い立ちを、彼がこの世に生まれた当時のスペイン内戦の状況や、その後スペインを襲った混乱や飢饉の様子をもふまえて描いたパートで、本書ではこのふたつのパートが交互に行き来するような形をとっている。そしてこのような本書の構成を追っていくと、非常に意図的な物語の流れが見えてくることになる。それは、闘牛を語るさいに、そしてスペインという国を語るさいに欠かすことのできない要素、すなわち日向(ソル)と日陰(ソンブラ)の激しい対照性である。

 はじめに、読者はマドリードを、いやスペイン全体をゆるがせるような一大事が、たったひとりの若き闘牛士によって引き起こされようとしている事実を知る。スペインじゅうの人々がその勇士を見ようとチケットに群がり、あるいはテレビに釘付けとなり、多くの店や会社が観戦のために休みとなり、通りに人っ子ひとりいなくなるという興奮ぶりに、読者は当然のことながらふたつの疑問をもつことになる。ひとつは、この熱狂の中心にいる闘牛士エル・コルドベスとは誰なのか? という疑問、そしてもうひとつは、闘牛という闘技にここまで熱狂してしまうスペインという国がどういう国で、そしてスペイン人がなぜこれほどまでに闘牛に熱狂するのか、という疑問である。

 だが、次に読者を待ち構えているのは、その闘牛士がまだ赤ん坊だったころのスペイン――共和党と国民党との争いによって国じゅうが疲弊しきっていたスペイン内戦の様子である。ここでの語り手はエル・コルドベスの姉をはじめ、その周辺にいた人たちで、そこに書かれているのは極度の貧困で日々の食料にさえ事欠くような生活、農民の暴動とその報復、内乱に巻き込まれた結果として起こった両親の死、そして一家離散というとことん暗い生い立ちである。以前のパートが華々しい闘牛士の活躍する日向の世界であるとすれば、この血なまぐさく陰惨なパートは、さしずめスペインという国が抱える日陰の世界だと言うことができる。

 そしてこの日陰の部分は、主人公たるマヌエル・ベニテスの少年時代においても変わらない。故郷の映画館で闘牛士のドキュメンタリー映画を観てから、自分も闘牛士となってこの困窮から抜け出すことを決意した彼のたどった道は、まさにすさまじいのひと言に尽きるくらいのどん底生活だ。闘牛士の見習いとして何の後ろ盾もコネもない彼は、それでも闘牛士への夢をあきらめることができず、真夜中に牧場に忍び込んで牛を相手にしたり、非合法のカペアという闘牛で、危険極まりない闘牛にあけくれたあげく、警察に逮捕されたりひどく棒で殴られたりといった生活を繰り返す。だが、そうした日陰の部分があるからこそ、逆に彼がほかならぬ闘牛士として、スペインじゅうの注目をあびている日向のパートがよりいっそう光り輝いてくる。

 そう、本書はこの日向と日陰を交互に行き来するような構成をとることによって、何よりスペインの闘牛というものの本質を雄弁に物語ろうとしているのだ。

 本書は闘牛士エル・コルドベスのノンフィクションである、と私は上述したが、本書の視点はかならずしもエル・コルドベスにばかり向けられているわけではない。マドリードでの闘牛を描くパートでは、現在の闘牛の進行――闘牛士や闘牛の入場から、牛の首の筋肉に槍を刺して頭を低くするピカドール、牛の背中に銛を打ち込むパンデリリェロ、そして主役たる闘牛士が華麗に牛をさばくファエナから、「真実の瞬間」と呼ばれる牛の殺しの場面までを順を追って描き、闘牛について部分的なイメージしかもっていない読者にも闘牛とはどういうものなのかがわかるようになっているが、こうした要素は本書を物語るごく一部でしかない。本書の本質は、あくまで日向と日陰の対比にこそある。もっとも典型的な例が、エル・コルドベスがマドリードで闘牛をする栄光の日に、他ならぬ闘牛によって深い傷を負って病院にはいったロプスティアノ・フェルナンデスだろう。いっけん本書をテーマ――闘牛士エル・コルドベスの半生を描くのに必要なさそうな彼のエピソードは、闘牛の日向と日陰の対照を演出するためには必要不可欠なものである。そして、こうした日向と日陰の対照は、本書のいたるところで見かけることができる。それは栄光と挫折であり、生と死であり、裕福と貧困であり、支配と隷属である。本書には、これらの光と影が、すべて描かれている。

「泣かないでおくれ、アンヘリータ、今夜は家を買ってあげるよ、さもなければ喪服をね」

 闘牛という闘技も、エル・コルドベスが歩んだ極貧の生活も、今の日本という国ではなじみの薄いものであるのかもしれない。だが、どのような逆境にあっても、けっして闘牛士になるという夢をあきらめることなく、ただひとつ、無謀ともいえる勇気だけを武器にのし上がっていったエル・コルドベスの突き抜けるような生き様は、人の心を打つものがある。ただ、本書はそんな彼の生き様について、夢や希望といった耳に心地よく響く言葉で飾り立てたりはしない。彼が何より貧困から抜け出したいという野心をもっていたこと、そしてそのために、ときには汚いことにも手を染めていたという事実を隠そうとはしない。そういう意味では、まさにありのままのエル・コルドベスの姿を描き出そうとした極上のノンフィクションであると言うことができるだろう。そして、そんな彼の台頭を、古き伝統にがんじがらめになってしまっている闘牛、しいてはスペインという国を変革していく、荒々しくも激しい時代の新たな流れとして結びつけた本書の意図は、この上なく成功していると断言してもいいだろう。(2005.08.10)

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