【新潮社】
『オルガニスト』

山之口洋著 
第10回日本ファンタジーノベル大賞受賞作 



 私のかけがえのない友人の中に、会社ではたらきながら「スンダリバンド」という小さなバンドを組み、ネパール民謡を軸とした歌を唄っている、一風変わった女性がいる。歌や音楽に関してはまったくのしろうとである私だが、彼女の高く澄んだ、なによりひたむきさを感じるその歌声に、私の心は少なからず揺さぶられる。歌唱の鍛錬を怠らず、公演のさいには場所確保、チケット販売、会場の準備から後始末まですべてこなし、何度もネパールに足を運ぶという彼女のバイタリティーをまのあたりにしながら、私は思う。いったい、彼女の音楽に対する並々ならぬ情熱は、どこから生まれてくるのだろう、と。そして、なぜ音楽は、時として人の心を強い感動で満たすことがあるのだろう、と。

 本書『オルガニスト』に書かれているのは、ひとりの天才オルガニストの物語である。そのオルガニストの名は、ハンス・ライニヒ。ブエノスアイレスの教会に彗星のごとく出現した彼の弾くパイプオルガンの旋律は、極限まで磨きあげられた精確無比な演奏でありながら、それでいて心の傷を癒すかのような、深い感情をともなって聴き手の胸の内に迫ってくるものがあった。ドイツのニュルンベルク音楽大学ヴァイオリン科助教授のテオドール・ヴェルナーは、かつての同僚が持ってきたミニディスクに収められたこの演奏を聴いたとき、九年前に行方不明になったままの、大学時代の親友でもある天才オルガニスト、ヨーゼフ・エルンストの演奏を思い浮かべる。

 そう、まさにオルガンを奏でるためにこの世に生を受けたと言っても過言ではないヨーゼフ。音楽を通じてJ.S.バッハといった大音楽家と心を通わせ、オルガニストの第一人者でもあるオルガン科教授のロベルト・ラインベルガーのお気に入りであり、世界的なオルガニストとしての将来を約束されていたヨーゼフ――しかし、交通事故によって半身不随の身となり、オルガニストとしての道を絶たれてしまったヨーゼフは、ある日病院から姿を消してしまう。

 一流のスポーツ選手が、自分の限界を越えたさらなる記録を打ち立てるために精進するように、真の芸術家というのも、芸術のさらなる高みを目指して自分の才能にさらに磨きをかけていく。それは、努力だけでは絶対に到達できない、ある種の才能を神より授けられた者だけに与えられた特権とも言うべき行為だ。
 だが、そんな神の御手による豊かな才能をもってしてもたどり着けない、芸術の核心とも言える高次元の世界が存在するとして、その高みをも極めたいと願うとき、真の芸術家はしばしば、自分の魂を悪魔に売り渡してでも自己を高めようとするものらしい。それは、文字どおり人間であることさえ放棄して芸術を選ぶという、残酷なまでに徹底した、強靭な意思なのだ。その燃え盛る、地獄の業火そのものでもある情熱を、もはや何人たりとも止めることはできない。

 かつて「僕は音楽になりたい」とうそぶいたヨーゼフ。ハンス・ライニヒという、人間ばなれした精確な演奏をするオルガニストは、はたして半身不随となったヨーゼフが、悪魔に魂を売り渡した姿なのか。そして盲目の老オルガニストのラインベルガーは、彼の完璧な演奏の裏に、どんな悪魔のささやきを聴きとったのか。古き伝統と、新しき技術――この相反するものが音楽という世界で真っ向から対立するとき、物語はさらなる悲劇へとつづく扉を開くことになる。

 パイプオルガンが持ついくつかの音色のひとつ、Vox humana(人間の声)。この音色を生み出したオルガン製作者は、自分の魂をひきかえに、悪魔からこの音色の製作法を教えてもらったのだという伝説を、老ラインベルガーは語る。

「この話には続きがある。しかし覚えておいた方がよい。芸術の道で己を高めたいという真摯な気持にこそ、悪魔がつけいるということを。悪魔の道は神の道のすぐ隣を通っているんだ」

 この世の中には、さまざまな分野で芸術家と呼ばれる人達が多く存在するが、いったい彼らのうちの何人が、その生のあるうちに芸術の核心に迫ることができるだろう。また、その核心に迫りたいと本気で考えている者が、いったいどれだけいるだろう。そこに到達するための階段は、おそらくヨーゼフのような、万人にひとりの天才にのみ用意されているのだろう。だが、そこにたどりつくことが、一個の人間として必ずしも正しいことだとは思わない。現代科学と、古典とも言うべきバロック音楽とか渾然一体となって織り成すひとりの天才の物語を、ぜひとも味わってもらいたい。(1999.08.17)

ホームへ