【東京創元社】
『天使が開けた密室』

谷原秋桜子著 



 ある知識があるのとないのとで、物事の見方が大きく異なってくるというのは、けっこうよくあることだ。たとえば、殺人事件が絡むミステリーにおいて、死体の発見された部屋がエアコンによって冷やされていたという状況に遭遇したさい、もし死体の死亡推定時刻がそのときの気温によってズレが生じてしまうという知識があれば、その意図に気づくことが可能である、というふうに。

 多くの知識をもっているというのは、事件の真相に近づく手助けとなるという意味で、探偵役をになうキャラクターにとっては必須に等しい条件だと言える。だが、ここで勘違いをしてはいけないのは、知識の有無はあくまで真相を知る手がかりとはなっても、真相を突き止める決定打となるわけではない、という点である。むしろ、余計な知識をもっていたせいで、真相に近づくどころか、かえって遠ざかってしまうというケースもまた、世のなかによくあることである。

 そして仮に、探偵が事件の真相にたどりつく――つまり、事件を引き起こした真犯人とその手口をすべてあきらかにしてみせたとしても、そもそも犯人がなぜ事件を引き起こしたのか、という動機については、当人の口から語ってもらわないかぎり、すべて推測の域を出るものではない。今回紹介する本書『天使が開けた密室』は、そうしたミステリーの基本の部分をきちんと踏まえたうえで、作品を構成しているという意識が強く見られるところがあり、そういう点で安定感のある作品となっていると言うことができる。

「泣いて問題が解決するなら、世の中、何の苦労もない。別に心配しなくてもいい。真犯人なら、もうわかっているから」

 さて、「ミステリーの基本の部分をきちんと踏まえた」というふうに上述するにはしたが、本書にはひとつ顕著な傾向がある。それは端的にいえば、肝心の殺人事件が発生するまでの前振りの長さだ。ともすると、本書がミステリーであるという事実さえ忘れてしまいそうになる長い前振り――殺人事件に彼女が巻き込まれるまでの長い前振りは、ミステリーという要素を語るうえでは大きなマイナスとなりかねないテンポの遅さではあるが、逆に言えば、ごく普通の女子高生であり、本書においては探偵ではなく、事件の巻き込まれ役にすぎない美波というキャラクターが、殺人事件に巻き込まれるだけでなく、その容疑者になってしまうという展開にもっていくためには、それだけの前振りが必要であると判断した結果だという見方もできる。そもそも殺人事件というのは、究極の非日常だ。テレビや新聞でそうした事件が毎日のように起こっていると知ってはいても、それが他ならぬ自分自身の身にふりかかるような事態になるには、当然のことながらそれ相応の理由づけが必要となってくる。

 この物語における殺人事件とは、美波の住む町にある麻生記念病院の霊安室で起こった、衆人環視の密室殺人だ。美波はある葬儀社の夜間アルバイトとして、この病院で臨終した死体を霊安室に運ぶというアルバイトをしていた関係で、この殺人事件に巻き込まれることになるのだが、本書の前半部分は、ほぼその理由づけに費やされているといってもいい。もともと引っ込み思案で泣き虫という性格の美波にしてみれば、もっとも縁のなさそうなアルバイトであるにもかかわらず、そのアルバイトを引き受けざるを得なくなる過程――それは、ともすれば殺人事件のトリックを考える以上に困難なものかもしれないのだが、本書ではその理由づけをひとつずつ、段階を踏んで構築していくだけでなく、そのなかに彼女の家庭環境、近所づきあい、交友関係といった要素を盛り込むことで、その日常生活を無理なく演出することに成功している。

 その結果として、本書には海外で行方不明になった美波の父親や、そんな彼をひたすら待ち続けるお嬢様育ちの母親、長身で一年生にして陸上部のホープ、宝塚の男役を思わせる彫りの深い美形ながら、典型的なべらんめえ口調と江戸っ子気質という立花直海と、由緒正しき華族のお家柄で、常におっとりとした性格ながら、政財界の重鎮にまで交友関係があるという西遠寺かのこの級友コンビや、そもそも美波に死体運搬のアルバイトを紹介した張本人たる野々垣武志など、非常に個性的で魅力的な登場人物たちが物語を彩ることになった。
 きわめつけとなるのは、今回の事件で探偵役を引き受ける大学生、藤代修矢の存在だ。殺人事件が絡む前は、美波の隣の屋敷に引っ越していながら、とある勘違いが原因で美波の天敵というべき立ち位置なのだが、美形ながら口や性格は最悪というキャラクター造形も相まって、少女漫画における王道――最悪な出会いからはじまって、少しずつその関係が恋愛感情へと変化していくという流れをあきらかに意識しているところがある。

 こうして、ミステリーというよりは、むしろ無茶なアルバイトを引き受けることになった女子高生のドタバタストーリーを強調するような構成となっている本書であるが、ミステリーの要素についても、ある真相にいたるまでの過程において、その信憑性をたしかなものとするためのミスリードや、ややありえない稀有や知識を披露するといった前振りを工夫しているところがあり、非常に手堅いという印象を与える。そうしたうえでの、本書のタイトルに込められた二重の意味も、物語をきれいにまとめるのに大きく貢献しており、序盤の美波の不運っぷりが一気に報われるラストへと自然とつながっていくものとなっている。

 解説によれば、もとは今はなき富士見ミステリー文庫から上梓されたという本書、はたして美波はいつになったら行方不明の父親を捜しにいけるのか、そして藤代修矢との関係はどうなっていくのか、シリーズとしての展開が楽しみな作品である。(2012.10.12)

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