【早川書房】
『オニキス』

下永聖高著 



 私という人間は、「私」という主観にどうしようもなく囚われてしまっている存在であるが、それ以上にこの世界の構造にも縛られている。たとえば、私たちが住む世界は三次元構造によって成り立っているが、もしより高次元の世界の住人がいるとすれば、彼らの思考や行動は私たちには理解不能なものであろうし、彼らのテクノロジーは私たちにとっては魔法のように見えるに違いない。私たち人間は想像力を有する生き物ではあるが、無限に飛躍していけるはずの想像力ですら、「私」であるという制約、「人間」であるという制約、「世界」のなかにいるという制約から自由になることは難しい。それがあまりにあたり前のことすぎて、ふだん意識することすらできないものであるとすれば、なおさらのことである。

 以前紹介した水野和夫の『資本主義の終焉と歴史の危機』において、資本主義とは広大な「周辺」から「中央」へ資本を吸い上げる仕組みであると定義しているが、それは言い換えるなら、無限に等しい「周辺」という地理的・物的空間がなければ、いずれ破綻するシステムということでもある。昔と異なり、今の私たちにとって、この世界にもはや秘境はなく、世界は広大であるというよりも、むしろ息づまるような閉塞感をともなうものとして認識されている。その気になればどこへでも行けるが、どこへ行ってもさほど変わらないように見える世界――宇宙ですら、そこを無限の開拓地ととらえるのではなく、何もない暗闇のなかに孤立てしている地球という視点でとらえかねない現状において、パラレルワールドや仮想世界、あるいはファンタジー的な異世界といった要素が、おもにライトノベル界隈で盛況であるという事実は、ある意味で今という時代を反映していると言うことができる。

 私たちの生きるこの世界が唯一無二の世界ではないとするなら、はたして他の世界にとってこの世界はどんなふうに映るものなのか、他の世界にとってどんな役割を負っているのか、とふと考える。そしてそれは同時に、私という存在意義にかかわる命題でもある。読書という行為は、しばしばこうした思わぬ問いを投げかけられるものであり、だからこそ面白いのだが、今回紹介する本書『オニキス』もまた、そうした部類に含めることができる作品である。

 書き換えられて消えた過去に対する新しく存在するようになった過去の優位性は、人類の歴史の在りように似ている。――(中略)――書き換えにより新しく創られた過去もさらに上塗りされ書き換えられうる。諸行無常、不変なるものなどこの世になにひとつないという真理は、過ぎ去った時間にすらあてはまるのだ。

(『オニキス』より)

 表題作を含む五つの短編を収めた本書のなかでも、ひときわ目をひくのが表題作『オニキス』における、過去が次々と書き換えられていくという設定である。時間を超えて存在する「マナ」と呼ばれる物質には、それに触れたものを過去や未来へと転移させる性質があり、それによって因果律が歪められ、それまでとは別の過去があらたに発生する。ただしそのさい、それまでの世界と新しく書き換えられた世界のふたつが枝分かれするのではなく、それまでの歴史は形を失い、新しい歴史が正しいものとして置き換わってしまう。世界は常にひとつのみ、というのが基本である。

 表題作では、そうした世界の置き換え作用から人間の記憶を保護する技術のモニターとなった人たちの生活記録からはじまって、このモニター実験の真の目的がどこにあったのかという流れへと突き進んでいくことになるのだが、話が進むにつれて世界の情勢が少しずつきな臭いものとなっていく。世界各国で先を争うように進められているマナ技術の開発――それはいつしか、平和利用のためではなく、敵国の歴史をまるごと改ざんしてしまうマナ兵器の開発へとシフトしていく様子が描かれていくが、それを知ることができるのが、過去の書き換えを認識できる者だけだという点が、この短編のひとつの読みどころとなっている。

 「マナ」による過去の改変作用は、当然のことながら人間の記憶にも及ぶ。ゆえに、どれだけ過去が置き換えられていったとしても、私たちに認識できるのは、そのなかの最新のものだけである。だが、この表題作の登場人物は、そうした過去の置き換え履歴を認識することができる。彼らはそれぞれの理由でモニターになることを承知したわけだが、頻繁に生じる過去の事実の置き換えは、言ってみれば地盤のゆるい土台の上に立っているようなもので、かならずしもその人たちにとってプラスの作用をもたらすわけではない。たとえば、医者になるために日々努力していたのに、過去が改変されることで、その努力がなんの前触れもなく無駄になるかもしれないのだ。極端なことを言えば、そこには人間の自由意思など存在しないに等しいということになる。

 本書に収められた短編は、いずれも私たちが拠って立つ常識や確固たる事象が大きく揺るがされるような事実があり、それに対して登場人物たちがどう立ち回っていくのか、という一貫したテーマがある。表題作の設定を引き継ぐ形となった『三千世界』では、無数のパラレルワールドを行き来できるようになった登場人物たちの放浪の物語であるが、自分がそれまでいた世界に嫌気がさして、逃げ出すように並行世界を渡り歩くものの、けっきょくユートピアのような世界はどこにも存在しないという結論に達してしまう。また『神の創造』には、特殊な波動によってミニチュアの異世界を発生させる装置が登場するが、ここではその装置の持ち主の視点と、装置によって生まれた異世界を唯一の世界と認識して生きる人々の視点が入り混じることで、他ならぬこの現実世界の曖昧さやいい加減さが際立つような構造となっている。

 自分の人生は他ならぬ自分自身のものだという常識は、本書の世界ではしばしば通用しなくなる。それはあるいは、何者かの意思によって改変された歴史の結果であるかもしれず、あるいは適当な偶然の産物にすぎないのかもしれない。そうした不安定さが、本書の底流にたしかにある。そもそも無数の平行世界が存在する場合、そこには無数の自分自身がいるわけで、そのぶん「まぎれもない私」の存在は希薄になる。だが、それでも人は生きていくことをやめることはできない。人はただのたんぱく質の塊でしかなく、自我はただの電気信号に過ぎず、世界そのものすらちょっとしたことで容易に変質してしまうという事実――ある意味で残酷な事実を知って、なお生きること、戦うことを選択する、あるいはそうすることしかできない人間の生は、しかしはかなくも美しい。

 三千世界を探しまわっても、ユートピアなんて見つからないだろう。それぞれの世界で、それぞれのたたかいがある。現実は、いつも過酷だ。――(中略)――諸行無常。形あるものはいつか砂に還る。その過酷な運命を拒否することは、つまり、現実の中で生きるのを放棄するということだ。

(『三千世界』より)

 2004年12月に起きたスマトラ沖地震のさい、たまたまタオ島にいたため津波の被害を免れた学生が登場する『満月』において、彼はしばしば自身の選択のことを思う。もし別の島へ行くことを選んでいたら、自分は津波に飲まれて死んでいたかもしれない、という思いは、しかし彼にとってどちらがより良いものだったのかという結論を保留した状態で終わるのだが、その「積極的諦念」とも言えなくもない心境は、あるいは今を生きる私たちにとって、もっとも必要なものであるのかもしれない。はたしてあなたは、その心境に対してどのような思いをいだくことになるのだろうか。(2015.01.23)

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