【河出書房新社】
『親衛隊士の日』

ウラジーミル・ソローキン著/松下隆志訳 



 第二次世界大戦において、ナチスドイツと手を組むことを選んだイギリスという仮想歴史を描いたジョー・ウォルトンの『英雄たちの朝』や、一党独裁政権によって徹底した殖産興業に走り、戦争を一度も経験したことのない日本を書いた石持浅海の『この国。』、あるいは第二次世界大戦で連合国に国土を分割統治されながらも、いまだ降伏せずにゲリラとして戦い続けている日本を舞台とする村上龍の『五分後の世界』など、「ありえなかった歴史」をあつかっている小説は意外と多く存在するが、私がこれまで読んできたそれらの作品に共通するのは、物語のなかで立ちあがってくる虚構の世界が、私たちのよく知る世界に対するアンチテーゼとしての要素を少なからず含んでいるという点である。完全なファンタジーというわけではなく、現実の世界を題材としているがゆえに想像しやすく、しかし現実のそれとは微妙な差異のある世界――私たちは小説を読むさい、どうしても自分になじみのある知識や経験を小説世界にもあてはめて読んでしまう傾向があるが、上述のような仮想歴史ものの場合、そうした差異が読者のなかで強く衝突することになる。それは言うなれば、小説をつうじてそれまでの常識やあたり前だと思っていた価値観に、疑問を投げかけるのに適した題材ということでもある。

 そんなふうに考えたときに、今回紹介する本書『親衛隊士の日』は、いったい何に対するアンチテーゼなのだろうか、と頭をはたらかせることになるのだが、同時にこんなふうにも思ってしまうのだ。はたしてこの作品には、そんなふうにとらえるべき要素がそもそもありえるのだろうか、と。

 この威風堂々たるホールの舞台で行われているのは、必ずしも適切なことばかりではない。ここにも謀反が浸透している。そう、だからこそ秩序を維持し、謀反を根絶やしにするために、我々がいるのだ。

 本書の語り手として登場するアンドレイ・ダニーロヴィチは、ロシア皇帝直属の親衛隊士「オプリーチニク」のひとりであり、そのタイトルにもあるように、親衛隊士としての一日を描いた作品である。そしてその冒頭において、皇帝の命のもと、裏切り者とされたとある貴族の屋敷を襲撃して処刑し、その妻を強姦、屋敷を破壊するという過激な行動をとっていることから、彼らが皇帝の支配を絶対的なものとするための、警察や軍ですら手を出すことのできない弾圧の実行部隊として機能していることが見て取れる。こんなふうに書くと、まるでかつてのスターリニズムの暗黒時代を髣髴とさせるものがあるのだが、にもかかわらず政治形態は専制君主制のようであるし、何より光線銃といった単語が出てくることから、じっさいには未来のロシア――より正確には新生ロシアという架空の国を舞台としていることが、少しずつわかってくる。

 資本主義たるヨーロッパの国々の影響を遮断するために国の西に巨大な壁を建て、表現や文化、他国との交流などを厳しく統制しているらしいことや、地方のさまざまな民族国家を統合しており、ヨーロッパやアメリカといった国には威勢がいいが、ほぼ唯一と言っていい友好国たる中国の自国への影響力は絶大で、その経済的・技術的援助なくしては立ち行かなくなっていることなど、読み進めていくにつれて新生ロシアの現状がかろうじて垣間見えるような構成となってはいるものの、本書の主観はあくまでロシアという国家、ひいてはその体現者たる皇帝に忠誠を尽くす親衛隊士であることが、ひとつの大きな特長となっている。それは言い換えるなら、私たち読者にとってはどこかおかしいと感じたり、あるいは矛盾していると思ったりすることであっても、語り手にとってはおかしなことでも矛盾することでもない、ということを意味しているのだ。

 語り手をふくめる親衛隊士たちには、さまざまな特権が与えられている。メルセデスを乗り回し、専用の道路を走ることを許され、演劇などの芸術に好き勝手な検閲を入れたり、上述したように反逆者を独自の権限でつるし上げたりすることができる彼らの権力は、相当に大きなものであり、人々の多くが彼らを恐れていることは想像に難くない。そして彼らは、それらの権力に対するさまざまな恩恵――それはたとえば、国内では禁止されているはずのドラッグを使用することだったりするのだが――について、あたかもそれが自分たちの仕事の当然の報酬であると考えているふしがある。秩序の維持という名目のもと、多くの矛盾や背徳をはらみながらもそのことにまるで気がついていない親衛隊士たちの一日は、ある意味で滑稽そのものである。

 そしてそれ以上に、彼らが個人として何を考えているのかがまるで見えてこないことへの不気味さがある。親衛隊士たちは非常に血なまぐさい、それこそ毎日のように誰かを殺すことを生業とするような仕事に就いている。にもかかわらず、本書全体の雰囲気はけっして重苦しいものではなく、むしろなにかのコメディを思わせるようなところさえある。だが、それも彼らがそもそも人を人として見ていないということを前提としているなら、何も不思議なことではない。というよりも、これは私個人の見解ではあるが、彼らは自分たち自身すら、あるいは人間として見ていないところがあるのでは、と勘繰りたくなるところがある。彼らのなかにあるのは、誰もが等しい権利と個性をもつ人間ではなく、皇帝や皇后、仲間としての親衛隊士、あるいは敵としての貴族といった、肩書きをもつ「何か」であり、その共通項としてあるはずの「人間」という要素がそっくりそのまま抜け落ちてしまっている。

 それゆえに、親衛隊士の視点で書かれる本書のなかに、「国民」としての登場人物がまったくと言っていいほど出てこない。彼らにとっての国民とは、彼らの意識のなかでは存在しえないのだ。そしてもし彼らのなかで存在しえるとすれば、それはすなわち国家の敵として意識された瞬間である。そんな雰囲気がおのずとほの見えてくるからこそ、本書は滑稽で、かつ不気味である。

 「訳者あとがき」にもあるように、本書には現代ロシアの文化や政治、歴史に対する風刺に満ちており、実在する作家を示唆するような人物名や詩といった要素があちこちにちりばめられている。そもそも新生ロシアの体制そのものが、16世紀の暴君イワン雷帝の専制君主のパロディという位置づけにあるとされているが、そうしたネタがわからずとも、近未来であるにもかかわらずどこか古臭く、科学の進歩よりはむしろ呪術や迷信といった前近代的な要素が今なお息づいている独自の世界観を楽しむべき作品だと言うことができる。だが、それでも私は問わずにはいられなくなるのだ。はたしてこの作品に、アンチテーゼたる対象物がそもそも存在しえるのだろうか、と。(2014.03.30)

ホームへ