【角川書店】
『女たちは二度遊ぶ』

吉田修一 



 私がこのサイトを運営していることは、私の勤める会社の何人かは知っていて、このサイトをつうじて知り合った人たちとオフ会で会うこともあるよ、といった話をすることもあるのだが、そのさいに彼らが一様に興味を示すのは、その女性の割合の多さという点である。

 おそらく、彼らのなかでの「オフ会」というものは、いわゆる「出会い系サイト」におけるそれと混同している部分があるのだろうが、男どうしの話においてしばしば異性の話題になってしまうのは、ある意味で男の性のようなものだ。いつの世も、男は女に興味をもたずにはいられない。だが、同時に私も含めた男たちは、しばしば女という生き物の言動に振り回され、まるで自分たちとはまったく異質の存在であるかのように感じてしまうこともある。じっさい、男どうしであれば、たとえ一時期は険悪になったとしても、ある程度腹を割って話し合えば分かりあえるはずだという意識があるし、だからこそ気楽に付き合ったりもできるのだが、女性を「女」と意識して付き合う場合、やはりそれなりに気を使ってしまうし、それでもなおその関係が唐突に終わってしまい、その原因もよくわからない、ということが過去に何度かあったのも事実である。

 男はプライドで生きているようなところがある。それゆえに、女性との付き合いにおいて必要以上に虚勢をはったりすることもあるのだが、どれだけ虚勢をはったところで、男にとって女という生き物は、永遠の謎のひとつであることに変わりはない。今回紹介する本書『女たちは二度遊ぶ』は、そんな男の視点からとらえられた、けっして魅力的とは言いがたい女性との出会いと別れを切り出した短編集であるが、これらの短編集を読み終えたときに感じてしまうのは、自分たちがけっきょく女性のことを理解することができないまま、彼女らに置いていかれてしまったというそこはかとない寂寥感である。

 全部で11の短編を収めた本書は、いずれも男性のほうが過去を振り返るという形で、かつて付き合っていたり出会ったりした女性のことを語るのだが、そこに登場する女性は、一様にあるひとつの事柄や性質と結びついていて、たとえば『どしゃぶりの女』『自己破産の女』『泣かない女』といったタイトルがつけられている。そして、彼らの出会うきっかけもまた、一様にありふれたものであり、とくに男のほうからアプローチするというよりは、その場のなりゆきでそうなった、というものがほとんどだ。『どしゃぶりの女』であれば、友人が語り手のアパートに女友達をつれてきた、というものであるし、『自己破産の女』であれば、友人と飲んでいた店で泥酔した女性にからまれる、といった具合だ。少なくとも、気の効いた出会い方ではないという一点で、これらの短編は共通したものをもっている。

 あれからもう十数年も経つが、実際なんであんな女と付き合っていたのか、自分でも未だに腑に落ちない。当時、ヘンな薬でも常用していて、意識が朦朧としていたのかもしれないとさえ思う。(『殺したい女』より)

 男性側の、女性に対する印象はけっして強いものではない。本書を読んでいくとわかってくるのだが、女性の名前さえ出てこないこともあるのだ。つまり、それだけその男性にとって印象が薄いということになるのだが、当然のことながら、もし本当に印象が薄い女であれば、彼らはそうしたことを思い出すことすらなかったはずで、思い出している以上、何か心に引っかかるものがあったということになる。そしてそう考えたとき、登場する男性たちが、いずれも当時は学生だったり無職だったり、あるいは失業していたり会社に就職したばかりだったりと、社会的にも不安定な立場、言ってみればモラトリアムな状態にあったという点が重要な意味を帯びてくる。

 本書に登場する男たちは、いずれも当時の「今」のままでいいのかと思っていながら、さりとて自分がこの社会で何を望み、どんなことをやりたいのかも定かではなく、とりあえずは現状に甘んじているようなところがある。そして知り合った女性にたいして、必要以上に試すようなことをしたり、弱みにつけこむようなことをしたりする。『平日公休の女』では、いまだ未練のあった以前の恋人とのヨリが戻りそうだとわかったとたん、今付き合っていた女に別れ話を切り出すし、『泣かない女』では、妊娠させた女に堕ろして欲しいということを、直接言うのではなく友人を介して伝えるという手段をとったりする。それは、私からしてもずいぶん情けない態度ではあるのだが、何かに対してはっきりとした答えを出すことができない、自分のやっていることが本当に正しいことなのか、自信をもって確信することのできないがゆえの態度であるとすれば納得がいく。

 何かの埋め合わせをするために、好きでもない女と時間を過ごしていたのではないだろうか、と。好きでなかったわけではない。ただ、好きだったわけでもない。きっとこれから好きになれると、そう思っていたのは間違いない。(『平日公休の女』)

 男女の付き合いにおいて、彼らの関係が本当の意味で恋人どうしと言えるのかどうかは、さだかではない。あるいは、恋人であると声高々に宣言し、その関係性をきちんと確立することのないままに、曖昧な関係でいつづけたかった、ということなのかもしれない。ただ、そうした名状しようのない、ある種不安定な関係が長続きする道理はなく、やがて女性は唐突に男のもとを離れていく。いずれもその理由ははっきりしていないことが多く、あくまで男の視点で本書が書かれたものである以上、男にとってそんなふうに感じた、ということでしかない。本書に書かれた唐突感は、男の側にとっての唐突感なのだ。だからこそ、付き合っていたはずの女性とのあいだに生まれた距離感に、そこはかとない寂寥感をおぼえずにはいられない。

『どしゃぶりの女』において、その女がいなくなって何年も経った頃、彼の母親からの話で、彼女が当時母親を亡くしたばかりで、仕事を休んで休養させてもらっていた、ということを知るシーンがあるが、そういう意味で、本書に登場する女性たちは、一時期の羽休めのために男のもとにいたかったのかもしれない。そして、時期が来ればそこを離れていく――それまでのことはそれまでのことと割り切ったうえで。だが、私も男だからわかるのだが、男のというものはそう簡単に割り切ったりすることができず、けっこう昔の思い出を引きずってしまう生き物でもあるのだ。

 人間を書くことが小説であるとするなら、本書に収められた男女の出会いは、ともすれば日常のなかに埋没してしまいがちな、ほんのささいな出会いでしかない。だが、そうした出会いにあえて焦点をあてたところに、本書の面白さがある。それはまるで、そうした出会いと別れのなかにこそ、本当に大切な何かが隠されているのではないか、と信じているかのようでもある。(2009.07.07)

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