【角川書店】
『少年陰陽師(窮奇編)』

結城光流緒 



 注1)本シリーズは完結した作品ではありません(2007.06.29現在)。
 注2)本書評はシリーズのうち「窮奇編」三部作を読んだうえでのものです。

 少し前に週刊少年マガジンで連載していたミステリー漫画「金田一少年の事件簿」は、主人公の高校生が名探偵として有名な金田一耕介の孫、という設定になっていたが、あの有名な「ジッチャンの名にかけて」という決め台詞も、もしその「ジッチャン」本人がまだ健在であり、孫が巻き込まれる事件にいちいち首を突っ込むような性格だったとしたら、きっと決め台詞として成立しなかったに違いない、とふと思うことがある。

 なにせ、あの金田一耕介である。その名声はあまりにも高く世間にとどろいており、それゆえに彼の血筋につらなる者たちは、必然的に金田一耕介という超有名人、普通の人というにはあまりにも高いステータスと比較される運命に置かれることになる。とくに、同じ探偵などやろうものなら、たしかに祖父の名前によっていろいろと便宜をはかってもらえることもあるかもしれないが、だからこそその比較は露骨なものとして表面化してしまう。金田一耕介がまだ現役であるとすれば、なおさらのことだ。

 事件を解決できれば「さすが金田一耕介の孫だ」と言われ、事件を解決できなかったとしたら「金田一耕介の孫なのに」と言われる境遇――そこには、個人としてたしかにあるはずのアイデンティティの片鱗も見当たらない。常に「金田一耕介の孫」としてしか見てもらえない当人の心中に、どれだけ複雑な鬱屈が積もっていたとしても、けっして不思議ではないはずなのだ。「金田一少年の事件簿」がミステリー漫画として成功したのは、主人公の高校生を人間としてではなく、あくまで事件を解決する「探偵」として成立させるために、金田一耕介という個を強く押し出すのではなく、その才知のみを主人公に顕在化させたからこそのものだと言えよう。

 本書『少年陰陽師』の主人公安倍昌浩は、あの稀代の陰陽師安倍晴明の孫である。時代は平安、彼もまた陰陽師の端くれとして、相棒である物の怪「もっくん」とともに、京の都に現われた異邦の妖怪集団との死闘を演じるというストーリーであるが、本書の大きな特長として挙げられるのは、陰陽師としてナンバーワンの知名度と才知を誇る安倍晴明が、八十という年齢にもかかわらずいまだ現役で活躍しており、昌浩の陰陽師としての半人前なところを大袈裟に――おそらくはからかい半分に――嘆いてみせたりする「たぬきじじい」ぶりを遺憾なく発揮しているという点である。それゆえに、昌浩はけっして「ジッチャンの名にかけて」と叫ぶことはない。代わりにこう叫ぶのだ。「孫、言うなっ!」と。

 偉大な先人の築いたあまりにも高い壁を前にして、それでもなおひるむことなく反発しつづける昌浩の激しい一面は、じつのところ安倍晴明という人物が絡んでくるときにのみ発揮されるものであり、基本的には素直でまっすぐな性格をしているし、時の権力者藤原道長の一の姫である彰子に対する淡い恋心に、年相応の戸惑いを覚えたりもする良い子である。だが、そのクセのないまっすぐな昌浩の性格は、まさにそのクセのない性格ゆえに、ともすると思いっきりクセのある安倍晴明や、じつは晴明に仕える式神十二神将のひとりだったりする「もっくん」といったキャラクターに食われてしまう危険をともなっている。じっさい、第一作である「異邦の影を探しだせ」においては、最後の最後においしいところを安倍晴明に持っていかれてしまったりもするし、それゆえに昌浩はますます安倍晴明に対する反発を強めることになるのだが、ある意味「金田一少年の事件簿」における「孫と子」の関係とはまったく正反対なふたりの立ち位置は、本シリーズにおいて非常に重要な意味を帯びている。

 本シリーズを読み進めていくとわかってくることだが、じつは昌浩のキャラクター性を支えている唯一の要素というのは、他ならぬ「晴明の孫」という点だ。それは、本人にとっては不愉快このうえない要素ではあるのだが、十二神将最強と言われる「もっくん」こと紅蓮がことあるごとに昌浩を「晴明の孫」と呼んで彼に力を貸し、また晴明自身が数ある子息のなかから彼を唯一の後継者として認めている事実から、「晴明の孫」という呼び名が陰陽師としては最高級の褒め言葉でもあることが見えてくる。封印された神を呼び起こし、暴走した紅蓮の力を単身抑え込み、強大な異邦の妖怪たちを薙ぎ払い、さらには変えられないはずの人の運命をも変えていく昌浩の運気――元服したばかりの少年の身にはあまりにも強烈すぎる「晴明の孫」としての力は、ともすると物語のバランスそのものを崩しかねない、都合のいい力でもあるのだが、その都合のいい力を都合のいい力としてではなく、他ならぬ安倍昌浩という個性として成立させているのが、その力の象徴である安倍晴明への反発心である。

 偉大な祖父の偉大な功績を認めつつも、そのあまりの偉大さぶりに個性さえも飲みこまれてしまうことへの反発を隠せない昌浩の、複雑な心のうち――「金田一少年の事件簿」においては黙殺されていた、いかにも人間臭い要素を、本書では逆に利用することによって、主人公にこのうえない個性の一端を付加することに成功した。そういう意味では、本シリーズは妖怪退治を主とするエンターテイメント小説であると同時に、「晴明の孫」という強烈な要素を、いかに昌浩としての個性へと昇華させることができるか、という少年の成長を描く作品でもある。

 成長とは、変化そのものである。世の中は常に変化をつづけ、とどまることを知らない。本シリーズにおける「窮奇編」の三作を読み通してみても、変化は少しずつ起きている。昌浩と「もっくん」とのつながり、昌浩と彰子とのつながり、そして昌浩と他の十二神将とのつながり――物語がはじまってから、彼はすでに「晴明の孫」ではなく、まぎれもない自分自身の人生を少しずつ歩みつつある。驚くべき素質をもちながらも、陰陽師としてはまだまだ半人前の安倍昌浩と、心のうちでは誰よりも昌浩のことを気にかけていながら、だからこそ昌浩の反発心をあおるような茶目っ気を見せる安倍晴明の関係が、はたしてどのような変化を迎えることになるのか――あるいは変化しないのか、けっこう楽しみにしている自分がたしかにここにいる。(2007.06.29)

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