【講談社】
『地獄番鬼蜘蛛日誌』

斎樹真琴著 
第三回小説現代長編新人賞受賞作 

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 芥川龍之介の作品のなかに『蜘蛛の糸』という有名な短編がある。極楽の御釈迦様が、地獄にいるカンダタという罪人に救いの機会を与えるべく、極楽から地獄に蜘蛛の糸を垂らす。カンダタはその糸を伝って上へとあがっていくのだが、それを見ていた他の罪人たちが次々と糸に群がってくるのを知り、彼らに下りろと言ったとたん、糸が切れてしまうという話である。

 この話のなかで、蜘蛛の糸が切れてしまうのは、自分だけが地獄から抜け出したいというカンダタの無慈悲な心ゆえのことだとされているが、この世に生を受けた人間が、まず自分自身が生きること、生かしつづけていくことを考えるのは、人間というよりも生物としての本質でもある。そしてカンダタという男が、生前に人殺しや放火といった悪事のかぎりを尽くしたという設定になっているが、彼がそんなふうになってしまった経緯については、どこにも書かれてはいない。この『蜘蛛の糸』という話は、見方によっては人が人であるがゆえに抱えずにはいられない業を問うているようにもとらえることができるのだが、もしその業こそが人間の罪であるのだとすれば、私たち人間にいったいどんな救いがありえるのか、と思わずにはいられない。そして、カンダタを地獄に突き落としておいて、まるで戯れのように救いの機会を与えてしまう御釈迦様の気まぐれに、いったいどんな意味があるというのか、とも。

 閻魔さまも含めて、弱者を支配する神仏は皆、弱い者なのだと。
 人間がどんなに拝もうと、貴方がたは助けが必要な者を放置している。もし本当に偉大で慈悲深い御方なら、教えを信じようが信じなかろうが、ちゃんと助けているはずです。見ていられないと言ってね。ということは、貴方がたは平気で見ていられる輩でもあるのです。

 生前に売春婦だったある女性が、死後に鬼蜘蛛として地獄の番人となり、鬼たちの使い走りとなりながら日誌を書くという本書『地獄番鬼蜘蛛日誌』を読み終えたときに、ふと冒頭にも書いた芥川龍之介の短編を思い出したのは、本書のなかに『蜘蛛の糸』に対するアンチテーゼとしての要素が含まれていると感じたからである。そしてそれは、人間としての業と、そこからの救いというテーマにつながっていくものでもある。

 三途の川をはじめとして、血の池地獄や針山地獄といったおなじみの地獄絵図のなかで、生前に罪を犯した亡者たちが鬼たちに延々と責め苦を負わされる、という地獄での出来事を書いた本書ではあるが、この物語における「地獄」という場がもっている要素は、私たちが想像するような地獄とは、多少毛色が異なっている。その最大の特徴は、亡者を責める役割を負う「鬼」の出自が明確になっている、という点である。じつは彼らはもともと人間であり、彼らが死後に鬼になるのは、生前の亡者に深い怨みをもっているからだ、ということになっているのだ。閻魔の裁きのさいに、生前の怨みをどうしてもはらしたいと願い出ることで、彼らは極楽には行かずに地獄の鬼となり、亡者たちを苦しめる側に立つ。つまり本書における「地獄」とは、他ならぬ人間の怨みや憎しみといった負の感情によって成り立っていると言うことができる。

 だが、本書を読み進めていくとわかってくるのだが、鬼たちの亡者に対する怨みは、かならずしも正当なものでないことがあるし、またその恨みを晴らすという報復行為についても、鬼たちの怨みの張本人に対して行なわれるというわけではない。つまるところ、鬼たちはその負の感情があまりに深いがゆえに、そうした感情に支配されること自体がひとつの目的と化してしまっているところがあるのだ。生前の怨みを死後に晴らす。しかし、そこが地獄という死後の世界である以上、どれだけ怨みをはらすような行為を亡者に繰り返していっても、その欲求はけっして尽きることがない。そしてそう考えたときに、はたして本当に罰されているのは亡者なのか、それとも鬼たちなのか、という疑問が生じることになる。

 真に助けを必要としている者たちを救済しない、罪人たちが、罪を犯す前にどうにかできなかった神仏に対して憎しみをいだき、いつか閻魔自身が地獄に堕ちてくることを願うことで、かろうじで地獄番としての日々を送っている語り手は、亡者とも鬼とも異なる立場にいる存在だと言える。そして物語は、そんな地獄の天井の一角に、ぽっかりと穴が開いていることを知った彼女が、結果として亡者たちではなく、鬼となった者たちの救済のための行動を起こす、という展開を迎えることになる。『蜘蛛の糸』で罪人を救おうとした御釈迦様は、極楽にその身を置いていた。だが、本書の語り手である鬼蜘蛛は、地獄にその身を置いている。そして亡者ではなく鬼たちのために、糸を地獄に垂らすのではなく、地獄から糸を上に飛ばし、穴の外にある世界への道をつくる。本書における地獄というものが、怨みをいだくという心がいつしか大切なものをないがしろにし、その結果として別の誰かから怨まれていくという負の連鎖の象徴であるとするなら、その負の連鎖のただなかにいた彼女が成したこと、最終的にたどりついた境地がどのようなものであったのか、という点が本書の重要なテーマということになる。

「光が生む光は、闇を生む。闇が生む光は、闇を包んで瞬く。其方はどちらの光が神仏を表すと思う」

 生前は極度の貧困のなか、自分の体を売って生きるという以外の生き方を知らず、文字どおり自身の身をすり減らしてきた語り手の生は、およそ人間らしいというには程遠いものであった。そして、そんな彼女に必要だったのは、誰かを憎むという心だった。だが、それは苦しみのなかで生きる力にはなっても、自身の人生を生きるに足るものとして認めるものとはなりえない。そういう意味で、本書に登場する者たちは閻魔も含めて誰もがどこかしら愚かな部分をもっている。だが、本当の意味での救いというものは、そうした愚かさのなかからこそ生まれてくるものではないか――そんなふうに思われるものが、本書のなかにはたしかにある。はたして、鬼蜘蛛となった語り手は、死すら存在しない地獄のなかで、自身のなかに渦巻く憎しみや怨みの心に対してどのような決着をつけることになるのか。その独特の世界の雰囲気ともども、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.02.03)

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