【福音館書店】
『鬼の橋』

伊藤遊著 
第三回児童文学ファンタジー大賞受賞作 

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 鬼という言葉の語源は「隠(おん)」から来たものだと言われている。人の目には見えないもの――たとえば飢餓や地震、火事といった自然災害、あるいは度重なる戦争や伝染病、いわゆる「神隠し」など、人々は自分たちに災いをもたらす説明不能なものに対して、「鬼」という言葉をあてはめ、自分たちの手に届かない不可視の存在をあえて目に見えるものとして定義づけすることによって、自身に振りかかる不幸を納得し、あるいはその不幸を退けられるのではないかと考えたのである。

 こうした言葉による定義づけは、いわゆる妖怪などにもあてはまるもので、それゆえに近代以降の科学技術の発達によって、いろいろな病気が治療できるようになったり、自然災害のメカニズムがあきらかになったり、また溢れんばかりの人工の光が夜の闇を駆逐していくにつれて、私たちはそうした言葉による定義づけを過去のものとして捨てていけるようになった。それは、私たち人間がそれだけさまざまな事柄について明るくなった、ということでもあるが、それでもなお、「鬼」という言葉については切り捨てることのできないまま、現代にいたるまで人間のなかに息づいている。もちろん、日本のおとぎばなしに出てくるような怪物としての鬼は、想像上の生き物にすぎないことを私たちは知っている。だが、同時に私たちは、心のどこかで納得しているのだ。「鬼」というのは、なにより私たち人間の心の闇にひそむ怪物であることを。そして、私たちひとりひとりの心の闇は、電灯の明かりをつけるように簡単には振り払えないということも。

「おれだって、たぶん昔は人だったはずだ。いつのことだったか、なぜ鬼になったのか、まるっきりおぼえちゃいないが。人が鬼になるのなら、鬼だって人になれる……」

 本書『鬼の橋』は、平安時代を舞台とした児童書ファンタジーということになっている。たしかに、物語のなかでさまざまな鬼が登場したり、この世とはまったく異なる世界を行き来したりといった、現実にはありえないことが多くおこるという意味で、充分にファンタジーとしての要素を含んでいる作品ではあるが、物語全体をとおして、あくまでその時代のリアリティーを踏襲する形をとっており、ファンタジーというよりは、日本昔話としての雰囲気がより強いと言える。だが、本書の最大の特長は、主要な登場人物がいずれも「橋」と強いつながりをもっている、という点である。

 もうすぐ元服を迎える貴族の少年小野篁(たかむら)は、ちょっとした悪戯心がもとで異母妹である比右子を死なせてしまい、現世で生きる気力をなくしてしまったあげく、この世とあの世のはざまにある世界に迷い込み、死んだ人間がかならず渡ることになっている長い橋を何度も訪れることになる。三年前に死んだ征夷大将軍の坂上田村麻呂は、「死後も都を守れ」という帝の命ゆえに、死んだ後も死者の世界に行くことができず、この世とあの世を結ぶ橋の上を永遠にさまようさだめを負っていた。みなしごの阿子那(あこな)は、死んだ父親が工事にかかわっていたという都の橋を、唯一の心の拠り所として住みついていた。そして、坂上田村麻呂に片方の角を折られた鬼の非天丸は、人間の世界に迷い込んで最初に出会った阿子那の願いを聞き入れて、大雨で増水した川の濁流から橋を守るために奮闘し、この世の生き物ではない鬼でありながら、阿子那とともに橋のそばで生きることを決意していた。

 橋というのは、あくまでこちら側から向こう側へと渡るための道であって、橋そのものは目的地に向かうための通過点でしかない。つまり、橋の上は川という明確な境界線のこちら側にも向こう側にも属することのない狭間の領域であり、本来は非常に不安定な状態にあることを象徴するものでもある。体は大きくなったものの、事故のことをひきずっているがゆえに大人になりきることのできずにいる篁、死者にも生者にもなりきれない坂上田村麻呂、橋にしか行き場を見出せなくなった阿子那、そんな阿子那を守りたいと思いつつ、鬼としての本性である「人間を食いたい」という欲求にさいなまれている非天丸――四人が四人とも、まるで橋を象徴するかのように何らかの狭間に縛られていて、行くことも戻ることもできずに悩み、苦しんでいる。

 物語は篁を中心人物として、自身をふくめた狭間にとらわれた人々の顛末を描くという形をとっている。気は強いものの、その日を生き抜くことさえままならない少女の阿子那に死んだ比右子を重ね、なんとか彼女の力になりたいと思うものの、篁自身もまだ無力な少年でしかない。橋が流されそうになったときは何もできなかったし、鬼たちの手から阿子那を救うことができたのも、坂上田村麻呂の弓があったからで、しかも彼の力ではまともに弓を引くこともできなかった。もちろん、坂上田村麻呂や非天丸などと比べられれば、大抵の人は無力であるのだが、物語が進むにつれ、そんな坂上田村麻呂や非天丸もまた、篁と同じような悩み、苦しみを秘めていることに気がつく。

 篁がとらわれている狭間は、その気になれば自分の意思で抜け出すことのできる狭間であるが、坂上田村麻呂や非天丸のそれは、自分だけの力ではどうすることもできないものである。動くことができる足があり、そのことで何かを変えていける可能性があるなら、いつまでも狭間でぐずぐずするのではなく、動き出さなければならない――本書は篁の成長を描いた物語であることは間違いないが、より厳密にいうなら、さまざまなことへの「気づき」の物語である。

 人の心の闇に巣食う「鬼」――もしかしたら、死への願望にとらえられ、何度も冥府の入り口に迷い込むことになる篁の心にも、目に見えない絶望という名の「鬼」が巣食っていたのかもしれない。であるなら、本書は見たままの鬼退治の物語であると同時に、自身の心に住まう「鬼」に気づき、これと立ち向かい、克服していく物語でもある。(2006.04.25)

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