【新潮社】
『このあいだ東京でね』

青木淳悟著 



 このあいだのゴールデンウィークに実家に帰省したさい、いつもなら電車でまっすぐ地元の駅まで行くところを、ちょっとした用事があって途中下車することになった。はじめて降り立った駅、はじめて目にする町――ふだんは見かけない川が流れていたり、市内を路面電車が走っていたりと、それなりに新鮮な気持ちを味わうことができたのだが、そのときふと思ったのは、ある地点から別の場所へと移動するさいに、私たちはついついその目的地のことばかり気にかけてしまうという一種の傾向である。

 移動するということは、その行き先に向かわなければならない何らかの理由があるからこそ移動するのだから、その途上にある人の気持ちがその目的地に照準を合わせているのは当然のことだ。だが同時に、私たちが意識しようとそうでなかろうと、その移動の過程で通り過ぎる地点には、よほどの山奥といった場所でないかぎり、かならずそこで暮らしている人々がいて、それぞれの生活が営まれ、そして何らかの社会活動が行なわれているというのも、またあたり前のことである。これはなにも旅行といった特別なイベントにかぎった話ではなく、たとえば通勤や通学といった、毎日のようにくり返される移動においても同じことである。いつも通り過ぎるだけのお店、いつのまにか置かれていた看板、乗り込んだ電車が通過していく駅など、ひとつひとつが何らかの理由をもって存在し、それが積み重なって歴史となり、景観のひとつとなってその場に息づいていく。それはまさに、私たち人間の雑多な活動のたしかな足跡だと言うことができる。たとえ、それらがとくに極端な個性を必要としないたぐいのものであったとしても。

 小説のジャンルのひとつとして「ロードノベル」という言い方があるが、そもそもなんらかの結末に向けて突き進んでいくという意味では、どのような作品にもロードノベルとしての側面があると言える。問題は、その目的地がある程度――あるいは露骨に――見えてしまっているかどうか、ということであるが、本書『このあいだ東京でね』の場合、そうした小説としてあるべき目的地が、そもそも存在していないという大きな特徴がある。いや、あると言えばあるのかもしれないが、少なくとも読者をしかるべき目的地へといざなうことが本書の目的ではない、ということである。本書は八つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品についても似たような傾向が表れている。

 たとえば表題作であり、本書のなかではもっとも長い『このあいだ東京でね』における出発点は、「東京都内に新たな住居を探す」というきっかけである。この「きっかけ」は、現実問題として本当に住居を購入するかどうかはともかくとして、何らかの形で借家住まいをしている人たちとしては、一度は考えずにはいられない人生の重大事のひとつである。だが、その「きっかけ」を得た具体的な人物像は、本書を読み進めていってもいっこうに見えてこない。あくまで不特定多数の、ともすれば誰にでもあてはまるような事柄からはじまる短編であるし、じっさい最初のほうは、ローンがどうの、不動産業者の営業マンがどうの、購入予定者の希望がどうのといったあたりさわりのない話がつづくのだが、たとえば、土地柄のランクのことを話していたはずなのに、気がつくとその土地の歴史をそれこそ江戸時代にまで遡っていたり、交通の便のことを話していながら、いつのまにかどこにでもあるはずの道路標識にかんする薀蓄話へとすり替わっていたりと、まるで読者を翻弄するかのような展開が待ち受けている。

 とくに特定の物語の筋があるわけではなく、あるいは物語の中心を成す登場人物がいるわけでもない。仮にいたとしても、彼らはあくまでその小説における景観のひとつにすぎない、という印象以上のものではない。そういう意味で、googleマップのストリートビュー機能を使って、ある一点から延々とその景観を描写していくという『TOKEY SMART DRIVER』は、著者が作品のなかにこめているテーマをもっとも端的に表わしている作品だと言える。私たちは作品とともに、ある場所から別の場所へと向かっていく。だがその移動は、特定のどこかへ移動することが目的なのではなく、移動すること自体、そのあいだに立ち現われてくる景観そのものが目的なのだ。

 何気ない文章のつらなり、きわめて専門的な用語の数々は、小説であって小説ではなく、かといってノンフィクションでも、実用書のたぐいでもないものへと本書を変容させていく。そして、本書を読んでいる私たちは、ある意味で私たちになじみのある言葉を追っていながら、いつの間にか私たちが予想だにしていない場所へと導かれてしまっている。たとえば、『ワンス・アポン・ア・タイム』の出発点は、一九九九年九月の新聞縮小版であり、そこから気象予報のこと、当時の政治情勢、経済、三面記事のことへと言及していくが、けっしてある一点に焦点を合わせない、あくまで景観を描写するごとく記事内容を描写していくそのバランス感覚が、著者の作品を危ういところで支えているものでもある。

 魅力的な物語があり、人を惹きつける登場人物がいる小説――私たちにとっての馴染み深い小説とはそういったものであることに間違いはないが、そこにはやはり物語という名の虚構でしかない、という意識がどうしてもつきまとう。私たちはあくまで主観の生き物であり、自分が意識しない人やモノといったものは、じつは存在しないも同然なのだ。それこそ、海外のある国で今もなお内乱がつづいているというニュースを知ったところで、私たちの日々の生活に何ら影響をおよぼすことがないのと同じことなのだが、だからといって、内乱そのものがこの世界から消えてなくなっているわけではない。本書に収められた短編集が垣間見せる、けっして特定の人物の主観にとらわれない、ありのままの世界の景観は、私たちの生活のなかでついつい見逃してしまいがちな、小さな要素に溢れている。それらは、人によっては本当にたいして意味のない要素でしかないのかもしれないが、少なくとも世界というのは、そうした要素の積み重ねによって成り立っている、ということを、本書は何よりも雄弁に物語っている。

 ありふれた風景のなかにいる、ありふれた人々――わざわざ物語という形で特定の人物を強調するわけではない本書は、はたしてあなたにどのような景観を見せてくれるのだろうか。(2010.06.16)

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