【東京創元社】
『渚にて』

ネビル・シュート著/井上勇訳 



 2011年3月に発生した福島第一原発事故は、この書評を書いている2013年8月の時点においてもタンクから高濃度の汚染水が漏れるなど、いまだ収束とは言いがたい状況がつづいている。汚染された国土の一部がいつ浄化されるのかについても、はっきりとした予測を立てられる人はおらず、逆に言えば、日本のエネルギー政策は、一度事故が発生してしまえば制御しきれない事態を引き起こすようなものを頼りにしていた、ということでもある。一部の情報によれば、毒性のきわめて強いプルトニウムの放出を確認したというものもあり、自然界には存在しないとされるこの元素の半減期が2万4千年であることを考えたとき、その途方もない年月は私たちにとってはもはや想像の枠をはるかに超えたものだという事実を認めなくてはならなくなる。

 プルトニウムの半減期である2万4千年という数字が、人類にとって途方もなさすぎて逆に現実味がないように、私たちの想像の及ばないものは、まぎれもない現実としてとらえることがきわめて難しい。たとえそれが、人類にとってどれほど致命的なものであったとしても、私たち個人としては、手の届かないような出来事には目をつぶり、身の回りのできごとやこれまで経験してきた事柄を現実の拠り所としてとらえ、それを足場として生きていくしかない。今回紹介する本書『渚にて』は、大規模な核戦争によって地球の北半球が崩壊した世界が舞台であり、人類を確実に死に追いやる高濃度の放射能が徐々に南半球も汚染しつつあるという、想像を超えた現実のなかで、人類にとっての「世界の終わり」を待つしかない人たちの姿を描いた作品だと言うことができる。

「わたしには想像力がないのでしょうね」と、ピーターは考えこむようにいった。「それは――それは世界の終わりです。わたしは、いままで一度も、そんなことを想像したことがありません」

 オーストラリア海軍に所属するピーター・ホームズ少佐が、北半球の汚染を逃れてメルボルンのオーストラリア海軍基地に寄港した、アメリカの原子力潜水艦スコーピオン号の連絡将校として乗り込み、人類の死滅した北半球のどこかから届く不定期の無電信号の調査に赴く、というのが本書のおおまかなあらすじであるが、それはあくまで本書を構成する要素の一部であって、主要な内容というわけではない。本書は地球の北半球で起こった核戦争によって、残された南半球の人々が少しずつ、しかし確実に死滅していく様子を書いたものであり、ピーターたちの住むオーストラリアのメルボルン地域は、おそらく放射能が最後に到達するであろうと予測されている場所として設定されている。そういう意味で、本書のサブタイトルにある「人類最後の日」は、まさにこの物語の本質を指し示すものでもある。

 本書を読み進めていってまず気がつくのは、そこに描かれている街やそこに住む人々の、ごく何気ない日常生活の様子が、物語の大半を占めているという事実だ。人類の歴史が確実に終わろうとしているなかにあって、まるでその事実とは無関係であるかのような人々の暮らしぶりは、しかし地球の北半球の国々の壊滅による影響を色濃く受けており、けっして私たちがよく知るところの「日常」というわけではない。たとえば、ガソリンや石油といった燃料はその大半を北半球からの輸入で頼っていたところがあり、本書の世界のなかで人々は自動車という交通手段を手放さざるをえない状況に陥っている。その代わりとなっているのが馬や牛といった動物であり、列車についてはおもに石炭で動かしているという状態。電気については供給されてはいるが、それもいつまでもつのかは誰にもわからない。

 ピーターが所属しているオーストラリア海軍についてもほとんど有名無実といった塩梅であり、今回の任務についても、スコーピオン号という現在稼働可能な潜水艦が寄港しなければ発生しなかったはずのものである。そしてアメリカ軍として、ほぼ唯一の生き残りといっていいスコーピオン号は、北半球がすでに人の住めるような土地ではなくなっていることの、よりリアルな情報をもたらす存在でもある。

 自分もふくめた人類すべての生涯が、ある日を境に永遠に失われるという「世界の終わり」を書いた作品としては、たとえば伊坂幸太郎の『終末のフール』といった作品があるが、巨大隕石の衝突にしろ、高濃度放射能による汚染にしろ、その言葉が意味するところはあまりにも大きすぎて、私たちにはきわめて貧弱な想像しかできないし、また想像することを拒否してしまう。世界は、自分が生まれる前から厳然として存在し、また私が死んだ後も存続する――それは誰かにたしかめるまでもなく、あまりにあたり前すぎてそれこそ意識することさえない事柄の、おそらく最上位に挙げられるもののひとつである。そして、そのあたりまえがあたりまえでなくなったときに、人々が何を思い、どのような行動をとることになるのかについて、本書が導き出している答えが、ふだんどおりの日常をつづけるという姿勢である。

 けっして逃れることのできない放射能によって、否応なく人生の終わりを迎えることになった時点で、それまでの日常生活をつづけることに何の意味もないというのは、理屈としてはよくわかる。だが本書のような、人智をはるかに超えるような災厄を前にして、理屈として筋がとおっていること、理路整然としていることの無力さもまた痛感せざるを得ない。わけのわからないもの、混沌としたものに対して、知恵と技術によって秩序をあたえ、自分たちの世界に引き込むことで対応してきた人類は、その知恵と技術が敗北するような事態になっても、けっきょくはそれ以外に縋るものを知らない。そしてもし、それができなければ、私たちはおそらく人間であることすら保つことができない。

 放射能を避けつつ原子力潜水艦で北半球の海岸を訪れ、人がいるはずがないとわかっていて、なお生存者に呼びかけをつづけることも、先がないにもかかわらず、家族で何年も先のことを計画することも、あるいはすでに死に絶えているとわかっていながら、北半球にいる自分の家族へのおみやげを買ったりすることも、すべて無駄に終わることは、登場人物だけでなく本書を読む私たちにも容易に想像できることである。この作品のなかで粛々とつづけられる日常がどこか悲哀に充ちているのは、北半球の荒廃ぶりとの対比によるものではない。これから先もつづいていくはずだと思い込んでいた人間の歴史――その知恵と技術の行き着く先が愚かしい敗北であるとわかっていながら、それでもそれに縋るしかない人々の行動そのものが、すでに悲哀に充ちているのだ。だがその悲哀は、人類が最後までほかならぬ「人間」でありつづけようとする意思の強さを物語るものでもある。

 人はいつか必ず死を迎えるものであるし、私という主観にとって、個人の死はそのまま世界の終わりではあるのだが、その後も世界がつづいていくか、あるいは本当に何もかもが終わってしまうのかの差は、あたりまえではあるがこのうえなく大きい。本書はもちろんフィクションだが、人類が滅びるかもしれないという、私たちの想像の届かない領域に挑戦するという試みは、フィクションの強みであると同時に、今の私たちにより必要なものの見方のひとつではないかと、本書を読み終えてつくづく思う。とくに、福島第一原発事故にともなって起こっている、「想定外の出来事」のバーゲンセールのような現状を考えると、なおのことそう思わずにはいられなくなるのだ。(2013.09.01)

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