【小学館】
『都立水商(おみずしょう)!』

室積光著 



『忘れられた日本人』という本を書いた宮本常一は、庶民の生活そのものにまで掘り下げるような民俗学の研究を志した人で、全国各地の村々に住むさまざまな人たちの声に耳を傾け、調査の旅をつづけたことでも有名な民俗学者であるが、その著書のなかでもとくに興味深いと思ったのは、農民の女たちの話題のなかに「猥談」とも言うべき性に関する話が、なんのいやらしい雰囲気もなく、きわめて明るい口調で語られていることを紹介したうえで、「女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである」と述べている点である。

 人はおよそ、男も女も、必ず性の問題と向き合わなくてはならない時期というのがやってくるものである。かの『恋愛論』を著したスタンダールは、恋愛を4つの形態に分類し、そのうちの「情熱恋愛」のみが本物の恋であるとしたが、そのスタンダールでさえ、恋愛感情の最初にやってくるのは「肉体恋愛」、つまり異性の容姿に対して欲情することであると述べているのだ。そして、こうした性欲というものは、やっかいなことに食欲や睡眠欲と同じく、生物としての本能に根ざすものであり、理性だけでどうこうできる問題ではない。

 日本で1990年ごろからしきりに言われている有害図書規制の問題をとりあげるまでもなく、私たちが生きるこの現代社会では、なにかというと性に関する話題について一方的にタブー視するような傾向がある。この手の問題は非常に微妙なものをはらんでいて、私自身偉そうに口出しできるだけの知識があるわけではないが、「子どもたちのため」というお題目の下に、露骨な性描写のされた出版物の販売を規制すべきという風潮が、じつは大人たちの都合なのではないか、という気がしてならないのは、はたして私だけだろうか。世の大人たちが、性の問題に対して正面から向き合うのを避けたいがゆえに、たんに醜いものには蓋をして、見えないようにしたいだけではないのか、と。

 宮本常一が言う「エロ話をゆがめている何ものか」とは、はたして何なのか。もしこの命題が気になるという方がいらっしゃるのなら、本書『都立水商(おみずしょう)!』を読んでみるのをお勧めする。本書はソープランドやヘルスクラブといった水商売に関する専門教育を行う都立高校を、新宿歌舞伎町に設立してしまうという、まさに前代未聞の出来事をあつかった作品なのだ。

 もう猫も杓子も大学を出てホワイトカラーを目指すような教育は、考え直す時期が来ておるのです。――(中略)――全員を一つの方向に走らせて、脱落者を捨てていくような形では、もはや教育とは呼べない。

 水商売はまともな者のする仕事ではない、という意識が、私たちのなかには多かれ少なかれあるかと思う。それは私たち自身が気がつかないうちに行なってしまっている、偏見や差別だと言っていいものだ。著者の作品は、以前紹介した『ドスコイ警備保障』もそうだったが、とかくその奇抜なアイディアばかりが目立ってしまうところがある。しかし、だからといって面白半分で水商売の専門高校を書いたのかといえば、答えはNOである。

 本書の中心人物ともいえる田辺圭介は、前任校で教育方針や生徒の指導の面で校長や教頭と衝突することが多く、なかば嫌がらせように「東京都立水商業高等学校設立準備委員」に異動させられた歴史の教師であるが、初代校長の矢倉茂夫をはじめ、そこに集った教師陣が、変わり者ではあるが誰もが水商売を社会に認知させることに並々ならぬ意欲をもつ人たちばかりであることを知り、真剣に水商立ち上げに熱意を注ぐようになっていく。設立当初の生徒たちは、中学では落ちこぼれだったり問題児だったりした者ばかりであったが、教師たちの意気込みと、あくまでプロフェッショナルを目指すという水商の方針に感化され、人間としての自信をとりもどし、本来持っていた才能を開花させていく。それがたとえば、女子柔道における赤木良子や、徳永猛をはじめとする野球部員のめざましい活躍につながり、また水商「ソープ科」の校外実習や、水商出身者のプロとしての仕事によって、女子高生の援助交際や悪質な水商売の店が駆逐されるといった社会現象へとつながっていく。まさに、これまでの教育問題を含めたさまざまな悪循環を逆転させる物語が、本書の中で展開されているのだ。

 女子生徒がこけしを手にして千回しごく練習をする「手こすり千回」や、校内実習の相手として男子生徒が協力するという事実が、男子の水商入学を呼び込んだり、欠席率やオナニーの回数を減らしたとかいう、笑えるエピソードも、また男女が集うからこそ出てくる心温まるエピソードや、感動すべきエピソードも満載されていて、読み物としても最高に面白い本書であるが、こうした物語を「荒唐無稽だ」と一蹴するのは簡単だ。だが、そうして否定する前に考えてほしいのは、なぜ著者がこのような物語を書かなければならなかったのか、ということであり、そうした疑問に目を向けたとき、現実世界の水商売関係者をはじめとする、多くの社会的弱者たちの置かれた立場が、本書のようなフィクションをもってしか救われない、という現実が見えてくるのである。

 本書はたしかに荒唐無稽だ。だが、そもそも商業高校や工業高校、農業高校や水産高校といった学校があって、なぜ水商売のための高校がないのか、という疑問そのものへのおかしさと、本書のおかしさ、はたしてどちらがより荒唐無稽なのだろうか。それはたとえば、「弱い人はいたわらなければならない」という人間としての倫理を説きながら、なぜ電車に「優先席」なるものが設けられなければならないのか、といった疑問とよく似ている。

 水商では、水商売について真剣に学ぶ。それは傍目には、くだらなかったり、滑稽であったりするのだが、学ぶうちに、いつのまにか「人間」を学ぶことに結びついていた。――(中略)――いろいろな意味で偏見に晒されてきた水商の生徒たちは、強く、そして他者に優しくなっていったのだ。

 社会的弱者が、頭でっかちで無理解な権力者たちに虐げられることなく、みんなが幸せになれるような社会――それも、変な宗教やパワーやエネルギーといったものではなく、ほかならぬ私たち自身の力によって幸せになれるような社会が、じつは本当に実現できるのではないか、という期待をいだかせる力が、本書にはたしかにある。(2004.01.18)

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