【文藝春秋】
『望楼館追想』

エドワード・ケアリー著/古屋美登里訳 

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 時間はすべてのものに平等に流れていくものであり、それゆえに世の中は常に変化してとどまることがない。どれだけ変わらないままでいてほしいと思ったところで、時の流れを止められない以上、何かが始まれば必ずいつかは終わりを迎えることになる。そのせいだろうか、何十年、あるいは何百年という長い月日を経て、それでもなお当時の姿をとどめたままその場所に建っていることを許された古い建造物を前にすると、何か特別な感情にとらわれてしまうことがある。

 もちろん、人間の短い寿命と比べれば、山とか川とかいった自然物ははるかに長い時間を変わらないままでいつづけるであろうし、夜空の星々などは太古の昔から同じようにその場で輝きつづけているものであるが、あくまでちっぽけな人間の手によって生み出された建造物、とくに、人々がそこに住むことを前提とした建物が、時間の容赦ない風化作用に耐えて変わらないままでその場にあるという事実は、それが人工物であるだけに格別の思い入れを持ちやすいものなのかもしれない。

 建物の歴史は、そのままそこに住んでいた――あるいは今も住んでいる――人々の歴史でもある。そしてその歴史が古ければ古いほど、そこでかつてあったであろうさまざまな人間ドラマについて、私たちは想像をめぐらせずにはいられない。古い建物は、有形無形を問わず、そこで生活してきた人々が、たしかにこの世に存在し、生きていたという痕跡をたしかに残しているものなのだ。

 この館はがっしりした禿頭のおじいさんのようだ、とぼくはいつも思っていた。このおじいさんは筋肉のたるんだ腕で膝を抱えて座り、なす術もなく見つめている。車の行き交う道路を、小さいけれど現代的な建物を、せわしなく行き来する大勢の人々を。そしておじいさんは深いため息をつく。どうして自分がここにいるのかわからないのだ。

 本書『望楼館追想』のなかで中心となるのは、一軒の古びた大きな館である。「望楼館」と呼ばれるその建物は五階建ての立方体しており、かつてこのあたりの土地を所有していたオーム家の邸宅だったものを集合住宅として改装したものだ。そして現在、その館には語り手であるフランシス・オームをはじめとして七人の住人が生活している。一日じゅう部屋に閉じこもってテレビばかり見ている婦人、いつも汗と涙を垂れ流している元教師、「犬女」と呼ばれている記憶喪失の女、名前を捨てた門番、椅子に座ったまま外面においても内面においても不動性を確立してしまったフランシスの父――同じ屋根の下に住んでいながら、お互いに相手の生活に干渉しないような生き方をつづけている、いずれもひとクセもふたクセもある住人たちに共通しているのは、誰もが過去や未来といった現実の時間とは無縁の世界のなかで、自分という人間とのつながりのいっさいを消し去って生きたいという強い欲求をもっている、という点である。そして彼らの住む「望楼館」は、同時に止まってしまった時間の象徴でもある。なぜなら、この館は町が今の町になる以前からその場にあり、かつて牧草地だった土地がにぎやかな町に変化していくなか、まるで陸の孤島であるかのように時間から取り残されている空間でもあるからだ。

 物語は、そんな「望楼館」に新しい住人が引っ越してくるところからはじまる。これまでこの館を去っていく者はいても、新たに入ってくる者は皆無だったがゆえに、その新しい住人の存在は、既存の住人たちの心の平安を大きく揺さぶる驚異だった。フランシスはなんとかしてその住人を館から追い出そうと画策するが、そんな彼の意思とは裏腹に、他の住人たちはなぜかその新入り――アンナ・タップの存在を受け入れていく……。

 これまで停滞していた「望楼館」のなかの時間が、アンナ・タップの引っ越しを起点としてふたたび動き始める。それは、そこに住む奇妙な住人たちの過去を掘り起こし、さらにはフランシスの両親の記憶を経て、「望楼館」がかつて「偽涙館」と呼ばれたずっと以前の記憶をも甦らせていく。さまざまな過去の記憶が交錯し、時間の狭間を漂うようなめくるめく物語が展開していく本書の形式は、まさに私が個人的にもお気に入りのものであるのだが、本書のなかでさまざまな紆余曲折を経て接近していくフランシスとアンナの関係にとくに目を向けたとき、そこに見えてくるのは、けっして自分たちの思いどおりになることのなく、また希望や願いが容易に裏切られていくこの厳しい世界のなかにあって、ことのほか繊細で傷つきやすい心を抱えた人々が、それでもなおふたたび人と人との関係のなかで成立していく人間社会のなかへと一歩足を踏み入れていくために、自身の止まった時間を動かしていく過程である。そしてそれは、否応なく流れ去っていく時間の力ゆえではなく、自身の意思によるものである。

 ことのほか個性的な登場人物が出てくる本書において、語り手のフランシスもまた、相当に強烈な個性を有する人物だ。常に白い手袋で両手を覆い、けっして生の両手を外にさらさないことへの異常なこだわり、その気になれば何時間でも蝋人形のように動かないままでいられるという特技、そして、他人が大切にしている物を盗んでは、地下の秘密の場所にコレクションしていくという、少々タチの悪い性癖――900点以上にもおよぶその膨大なコレクションは、他人にとってはゴミに等しいものであっても、フランシスにとっては彼の過去を証明する貴重な品々であり、それは彼の生きた証であると同時に、オーム家のひとりとして有する「望楼館」「偽涙館」の歴史にもつながっていくものである。本書を読みすすめていくと、盗みをはたらく自身と物語の語り手としての自身とが、しばしば他人であるかのような分裂症状が出ることがあり、その点と、彼がそれらのコレクションのなかでもことのほか大切にしている、彼がたんに「物」と呼ぶものとの関連性についても、大いに注目すべきものがあるのだが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、フランシスのコレクションに対する愛情がどこか歪んだ、けっして先に進むことのない感情であるのに対して、アンナ・タップの存在がその対極に位置するものだということである。

 本書のなかで町の写真を撮りつづけているマッド・リジーという女性が登場する。彼女の性癖に対するフランシスの言葉は、同時に彼自身のコレクションに対する隠喩に相当するものであるのだが、彼はそのことになかなか気づくことがない。

 彼女は一日中、町の生活を捕えるためにかけずり回っている。しかし町をピンで留めておくことはできない。――(中略)――彼女は、自分の作品を完成されるために大勢の人の生活を撮らなければならない。しかし最悪なのは、――(中略)――町の写真を撮れば撮るほど、自分の感覚とは離れていくということだった。

 はたしてフランシスは、いつその事実に気づくのか。彼の集めたコレクションと本書で展開する過去の物語との関連性や、彼をはじめとする「望楼館」の住人たちが現在に至る原因を追い求めるという点ではミステリーとしての要素があり、またフランシスとアンナとの関係に注目するなら、第一印象は最悪でありながら、いつしかお互いのことを意識するようになる少女漫画のような恋愛の要素もある本書であるが、何より「望楼館」という館のもつ魅力と、時間の流れをことのほか意識したその物語構成のダイナミックさは、たんに過去の記憶をたどる物語という言葉で収めてしまうにはあまりにも多くの物語性に満ちている。長い停滞を経て少しずつ動き出した時間が、はたして登場人物たちをどこへ連れていくことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2007.05.06)

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