【講談社】
『木製の王子』

麻耶雄嵩著 

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 私たちは無秩序に放っておかれたものよりも、整然としたもの、緻密に計算されつくされたものに対して、ある種の美しさを感じとる。クフ王のピラミッドやギリシャのパルテノン神殿といった、人類の英知を結集して築かれた建造物にはもちろん、天才と呼ばれた偉大な芸術家の作品などにも、そこに独自の秩序を感じとったとき、私たちはその対象に感銘を受けることになる。
 だが、秩序だったものは、何も人工物にばかりあるわけではない。たとえば、ミツバチの巣の整然と並んだ六角形や、クモの巣の幾何学的とも言える模様のなかに、私たちの知恵では想像もつかないような計算を感じるのもまた事実である。そして何より、私たち人間という生物のなかに秘められた奇跡――それを構成する器官のひとつひとつに目を向けたとき、そこにはまるで、神の意志がはたらいたかのような純然たる秩序があり、完璧なまでの機能美が備わっていることに気づくことになるだろう。

 血肉を宿したアナログな存在であるはずの私たち人間の体が、いたってデジタルな機能の集合によって生存しつづけているという逆説――本書『木製の王子』という作品は、そんな逆説を逆手にとって構築されたミステリーだと言うことができるだろう。

 本書の中心となるのは、世界的な芸術家である白樫宗尚(むねなお)の、比叡山の奥に建てられた屋敷で起こった殺人事件である。殺されたのは白樫晃佳(あきか)、宗尚の双子の姉妹である禎佳(さだか)の一人娘であると同時に、宗尚の一人息子である宗伸(むねのぶ)の妻でもあるという、なんとも奇妙な関係なのだが、それは宗尚の両親も含め、屋敷内の住人が白樫家と那智家の二家だけで婚姻関係を結んだ、言わば「閉じた家系」に収まっているからに他ならない。
 事件当時、外部からの侵入の痕跡はまったくなく、犯人は屋敷内にいた者の誰かに絞られたが、晃佳を殺害し、首を切断し、胴体を地下の焼却炉で処分して首を音楽室に運ぶという芸当をやってのけるには、すべての人間のアリバイが完璧すぎるくらいに成立していた……。

 この難事件の捜査に加わることになったのが、警察も一目を置くという私立探偵の木更津悠也だった――とこう書くと、名探偵がその天才的な洞察力から見事な推理を展開し、犯人を暴き出すという、昔から使われてきた正統派ミステリーのような印象を受けるかもしれない。事実、木更津がミステリー同好会のメンバーたちにアリバイ崩しをさせる、という設定で、屋敷の間取りと各人物のタイムテーブルを用意し、読者自身にも犯人探しをさせる、という点ではその通りである。だが、本書の読みどころは、もちろんそれだけではない。

 白樫家と那智家のそれぞれの男女である第一世代が生んだ、二組の男女の双子たち第二世代。その双子たちが、それぞれもう一方の家の男女と結婚して生まれた一人の男と一人の女という第三世代、さらにその男女が結ばれて生まれた、ただひとりの子供――普通なら代を重ねるたびに、他家との姻戚関係が増え、家系図は末広がりになるはずなのに、まるで時間が逆転したかのように、家系図が収束していくという逆説は、それだけでもミステリーとしては非常に魅力的な要素だと言うことができるだろう。さらに、白樫宗尚が唱える「聖家族」の構図と、それを崩壊させる「魔」の存在、閉じた家系の中だけで信仰されている神話、木更津が唯一解決できなかった三年前の事件と、今回の事件との、ただひとつの接点である指輪、また、同じくその指輪を手がかりに、自分の本当の家族かもしれないと白樫家への接触を試みる安城則定(のりさだ)の存在など、まさに謎が謎を呼ぶ展開で進んでいく物語は、犯人探しに興味がなくとも読みごたえ充分な作品として完成している。

 本書は逆説のミステリーだと、私は書いた。アナログな存在であるはずの私たちが、その体内にきわめてデジタルな機能を内包しているという逆説――それは白樫家の、あまりにシンプルを極めている家系図についても同じことが言える。白樫家の一族については、宗尚以外の存在はつい最近までまったく公にされることがなかった。当の宗尚も、デビュー以前の経歴がまったく不明という、とかく謎の多い一族だと言ってもいい。本書のなかで木更津が語っているように、そこには「存在自体はやたら薄ぼけている」のに「系図だけがやけにはっきりとしてデジタルな匂いがする」のである。そう、まるで最初にこの家系図があり、それを成立させるために各人物を配置していったかのように。
 このような逆説は、たとえば晃佳が殺害されたと思われる時間帯における、屋敷内の各人物のタイムテーブルについても言えることで、一見それぞれが勝手に動き回っているように思えるにもかかわらず、そのあまりに正確すぎる時間ゆえにどこか全体が薄ぼけてしまい、それが各人のアリバイを中途半端なものにしてしまっている、という逆説を成立させている。

「この事件の怖いところは、環境や状況の機械的というか図式的な部分ばかりが目について、そのためについ機能的に割り切って考えてしまうことなんだ。現実問題としてではなくパズル問題として扱う誘惑につい駆られてしまう。それが本質を見失わせ机上の空論が気がつくと空回りしている寸法なんだ。――」

 この木更津の言葉にある「現実問題」とは、実際に殺人事件が発生し、人の命が永遠に失われてしまったことを意味する。その殺害現場に居合わせてしまった、創華社という出版社の編集部に勤める如月烏有は、その言葉どおり、パズルを解くかのように今回の事件のアリバイ崩しに熱中するミステリー同好会のメンバーに対して、ある種の不審を抱くことになるのだが、彼らに限らず、私たちもまた本書に登場する白樫家の面々に対して、そしてその殺人という事実に対して、ほとんどリアルなものとして捉えていない、という事実に気づくはずである。

 ごく一部の例外を除いて、この手のミステリーは、まず殺人事件が起こらなければ物語が始まらない。つまり作者は、ミステリーをミステリーとして成立させるために、殺人事件を構築する。それがすべてのはじまりとなる。そして名探偵シリーズが回を重ねるごとに、普通ならば一生縁のないことだってあるはずの殺人事件、しかも難解なトリックつきの事件が日常茶飯事となってしまう。
 小説であるからには、そこにはリアリティーが必要だ。だが、人間の生死という重い命題が、書けば書くほど薄れていってしまうという、ミステリーという分野そのものが抱えてしまった最大の逆説――著者である麻耶雄嵩は、あえて事件そのものを極端に機能的なものとすることで、彼なりにこの逆説の突破を試みようとしている。そしてその姿勢こそが、本書の謎を解くための最大の鍵なのだ。

 白樫家の家系図に見られる、整然とした逆三角形の図形は、自然なものを感じさせないがゆえの美しさがある。だが、その人工の美しさは、完璧であるがゆえに脆く儚いものでもある。それは、私たち人間の体の機能がどこかひとつでも狂ってしまえば、容易に病気になったり死にいたったりしてしまうのとよく似ている。メルカトル鮎が登場しないことで、逆に正統派ミステリーとしてひとつの究極を目指した本書が辿りついた結論がどういうものなのか――ミステリーファンでない人も、ぜひとも本書を読んで確かめてもらいたいものである。(2000.10.29)

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