【産業編集センター】
『お稲荷さんが通る』

叶泉著 



 得体の知れない何者かにとり憑かれてしまう、というシチュエーションは、それこそ藤原伊織の『蚊トンボ白鬚の冒険』に登場する蚊トンボから、大原まり子の『エイリアン刑事』に登場する寄生型異星人まで、じつにさまざまなバリエーションとともに、およそあらゆるジャンルの物語で使われてきたものであるが、こうしたパターンが繰り返し使われ、しかも廃れていくことがない理由として、「未知とのコンタクト」という展開をある意味強制的に演出できてしまう、ということがある。

 物語における「未知とのコンタクト」は、常にセンス・オブ・ワンダーに通じている。そもそもセンス・オブ・ワンダーというのは、何かに対して不思議だと感じる心の動きのことであって、必ずしも非日常的な物事のことを指すわけではないのだが、私たちの日々の生活のなかで、なかばあたり前のように接している現実的出来事のなかに、センス・オブ・ワンダーの要素を見出すためには、それなりの創意工夫が必要となってくる。何らかの使命を帯びて人跡未踏の地に旅立ったり、異世界への扉を開くといったシチュエーションは、センス・オブ・ワンダーを演出する典型的な手法であり、また「未知とのコンタクト」にもつながっていくものであるが、得体の知れないものにとり憑かれるというシチュエーションは、主人公がそこにいたる過程を一気に吹っ飛ばすことが可能なのだ。なぜなら「未知」そのものが、勝手に主人公のほうにやって来てくれるのだから。

 本書『お稲荷さんが通る』は、まさに「とり憑かれ」シチュエーションの王道を踏襲した作品だと言うことができる。

 今から三カ月前ぐらいのある夜、酔っ払って家に帰る途中で、つまずいて転んだ。その時、地面から出ていたちょっと大きめの石でアゴを強打した。――(中略)――その時から、あたしの中に変なものが住み着きだした。

 一人称の語り手である桐之宮稲荷がそのアゴを強打した石は、かつて御神体として祭られていた石だったらしく、それ以来、稲荷は自称「神」を名乗る得体の知れないモノに憑かれている。憑かれている、と書きはしたが、別に低級な霊や動物霊といったたぐいのものではない。じつは日本神道における国津神のひとりであり、「宇迦之御魂神」という立派な名前がついていたりするのだが、本来であれば京都の観光名所でもある伏見稲荷大社の主祭神であり、また「お稲荷さん」として広く信仰されているはずの神が、なぜ祭られもせずに打ち棄てられ、十八歳の娼婦として生計をたてている稲荷に住み着くような羽目に陥っているのか、という疑問が当然のことながら生じてくる。

 稲荷本人はこの突然の闖入者にうんざりしており、一刻も早く自分の体から出ていってほしいと願っているが、いっぽうの宇迦之御魂神――稲荷流に言うなら「ウガ」――は、「わしの大事な依童」であるとか、「信仰を復活させるための巫女」であるとかいろいろ理由をつけて、いっこうに出ていく気配を見せない。強制的な「未知とのコンタクト」というシチュエーションから、さまざまな事件を通じて共通の体験を重ねていくうちに、少しずつお互いのことを認めていくようになる、という展開の本書は、純粋に稲荷たちの活躍を楽しむ作品として読んでいってもまったく差し支えのないエンターテイメント小説であるが、それでもなお目を向けるべきことがあるとすれば、それは彼女たちが生きる世界の特異性だと言うことができる。

 じつは本書の世界において、日本という国は存在しない。世界じゅうを襲った飢饉によって国家間のパワーバランスは大きく崩れ、資本主義に代わって社会主義が世界を席巻、かつて日本だった小さな島国は、今は「日本省特別行政自治区」という名の、中国の一部として合併されてしまっている。その過程において、日本人は日本文化排斥運動を起こし、神社を中心とする日本独自の文化を徹底して破壊していったという背景をもつ本書の世界において、ウガをはじめとする神道の神々たちは、まさに人々から忘れ去られた存在として弱体化してしまっているのだ。そして日本人もまた「日本族」と呼ばれる、その世界では最下層の民族として生きていくのが日常となってしまっている。飢饉後に生まれた稲荷にとって、かつての経済大国として日本は過去の歴史のなかだけのこと、したがって廃神毀釈によって打ち壊された神々のことも知らず、神も霊も一緒くたというのが現状だ。

 信仰を失い、忘れ去られていくのみの神様と、生まれたときから最下層で、日々を生きていくだけで精一杯の稲荷――ふとした偶然によって出会うことになったふたりであるが、ふたりにはそれぞれ、自身の存在に価値を見出してもらえない境遇にある、という意味では共通のものをかかえている。ふたりの出会いはたしかに強制的な「未知とのコンタクト」によるものかもしれないが、物語のなかでお互いがお互いを必要とするような関係を築いていくことで、ささやかながらも自身の存在意義を再構築していくという過程が、本書のなかには含まれているのだ。

「ねえ、ウガも日本族に捨てられたことを怨んでるの? あたしたちって、生きてちゃダメなのかな?」
(わしはおぬしが好きじゃ。日本人が好きじゃよ)

 けっして恵まれた境遇にあるわけではない。だが、稲荷は基本的に日々の生活のなかで美味しいものを食べたり、ある男性に片想いしたりといったイベントに夢中であるし、ウガはウガで稲荷との出会いによって、自身の信仰の復活という可能性に息巻いているところがある。そういう意味では、ふたりはたしかに充足した生き方をしていると言うことができる。物語の構成という点では、特異な近未来という魅力的な設定を生かしきれていないなど、いろいろと問題があるのはたしかであるが、何より生きがたい世の中を、それでも懸命になって生きていこう、ささやかな幸福を守っていこうという登場人物たちの心情はこのうえなく伝わってくる。今後の作品におおいに期待したいところである。(2010.05.28)

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