【メディアワークス】
『あいつ等だけのお姫様!?』

結衣著 



 誰かに恋をすることと、誰かの恋人になることとは、同じようでいてじつはまったく異なる状態を指すものである。なぜなら、誰かに恋をするのは、とりあえずその人のなかだけで完結するのに対し、誰かの恋人となるのはひとつの結果であるからだ。恋愛におけるひとつの流れとして、誰かに恋をして、そこから何らかの行動に出て、その結果として恋人どうしという関係を築く、というのが普通なのだろうが、たとえば愛の告白をされた相手が、その対象についてとくに特別な想いをもっていなかったとしても、その告白を受けて恋人になる、というシチュエーションは充分にありえるわけで、その場合、上述の手順は逆のベクトルを描くことになる。恋人どうし、という特別な関係ゆえに、相手のことがいとおしくなっていく、というものだ。

 こうした一部例外は除いて、誰かに恋をした人間がその相手と恋人どうしになるというのは、それまであった関係が否応なく変化することを意味する。だからこそ、愛の告白という行為には多分の勇気を必要とする。もしかしたら、これまでつづいていた関係まで壊れてしまう可能性を、それは秘めているからだ。そしてその関係は、長くつづいていればいるほど、壊れたときの痛手もまた大きなものとなる。たとえばそれが、幼なじみという関係であれば、なおさらのことだ。

 本書『あいつ等だけのお姫様!?』は、携帯サイトの「魔法のiらんど」に投稿されている、いわゆる「ケータイ小説」の文庫化されたもので、本書はサイト内における同タイトルの第一章と二章を掲載した形となっている。じっさいの携帯サイト内では、このあとに第三章と四章があり、さらに同タイトルの「Second Season」「Third Season」と話はつづいており、本書はその第1巻目という位置づけだ。ケータイ小説そのものについてはインターネット内でも賛否両論、いろいろと取り上げられているため、この場でそのことを語るのは避け、あえて本書の内容を中心に書評していきたいのだが、そう考えたときに、がぜん気になってくるのは、それぞれの登場人物たちの関係が、どんなふうに変化していくか、という点である。

 そのタイトルからもある程度想像がつくかと思うが、本書は基本的にひとりの女の子に対して複数の男の子が関係する、という形を踏襲する。女の子の名前は桐島杏樹、男の子のほうは三人いて、それぞれ高野愁、加藤慶介、大浦龍也。この四人の家は、それぞれ隣どおしだったり、あるいは向かい側にあったりといったご近所であり、四人の関係は当初「幼なじみ」である。そして、これが重要なところだが、男の子の三人は、いずれも杏樹のことが好きで、お互いにそのことを承知しているのに対して、杏樹のほうはそんな彼らの気持ちにはいっこうに気づいていない。彼女は物語開始当初、山村という男の子とつきあっていて、幼なじみの三人はあくまでウザい腐れ縁という範囲を超えていないのだ。

 もちろん、本書がラブコメ路線を突っ走る以上、杏樹に恋をしている三人はいずれ何らかの行動を起こさざるを得ないし、そのことで当然のことながら四人の関係にも変化が生じることになる。本書が――というよりは、これはケータイ小説一般についても言えるのかもしれないが――面白いと思うのは、たとえば「杏樹が三人のうち、誰を選ぶのか」という命題について、通常であればひとつの作品をまるまる使って最後に結論を出すのに対して、本書の場合、第二章の中間あたりでそのあたりの決着がとりあえずついてしまう、という点である。もっとも、本書を文庫化したときに、その点を考慮したうえで第二章がラストに来るようにしたのかもしれないが、物語のほうはその後もつづいていく。そしてそのさいには、別の命題を用意して読者の興味をつなぎとめていく。それは、たとえば「いつキスをするのか」であり、「いつ初体験をするのか」であり、あるいは「ライバルの後輩が急接近」であったりする。

 いわば、登場人物は変えないまま、いくつもの山場をつくって物語そのものをつなげていくという手法は、よくよく考えてみると、あくまであらすじを追うことに重点が置かれるケータイ小説ならではのものであるが、ここで問題となってくるのは、桐島杏樹というキャラクターがこと恋愛にかんして、受け身の姿勢をとっているという点だ。ようするに、それが彼女の「お姫様」ゆえんのものだとも言えるのだが、誰かを恋人に選ぶにしろ、初Hにいたるにしろ、杏樹が主体となって行動を起こすというよりは、彼女の周りにいる三人の男の子、さらには彼らの家族たちが一致団結して、まるで杏樹が恋愛路線へ突き進むようにお膳立てしているところがある。そんな彼女が今後、恋愛という要素を取り込んでどれだけ成長していくのか――あるいは成長していかないのかについても、気になるところである。そして、それまで「幼なじみ」という共通の関係を維持してきた四人のそれぞれの感情が、今後どのように変化していくのか、ということについても。

 私は本書を書評するさいに、本書以降の物語については携帯電話で同タイトルのサイトにアクセスして読んでいったのだが、本という形にするといろいろと違和感の出てくる本書独自の文章が、携帯電話の画面を通すとなるほどと納得できるものがあることに気づいた。たとえば、本書は四人の主要人物が一人称を次々と交代して進んでいく形式となっており、一人称の会話は「」、それ以外の人物の会話は『』を使うというルールがあるのだが、本にしたときはいかにも余計なことだったものが、一画面で表示できる文字数が限られている携帯電話というツールで読む場合、けっこう重要なルールになるのである。ゆえに、今後ケータイ小説を読んでみようと思っている方がいらっしゃるとしたら、本を手にとる前に、携帯電話の画面でその作品を一度読んでみることをオススメしたい。

 数年前には、まさか自分が携帯電話を持つようになるとは思いもしなかった私であるが、今ではたとえば電車のなかで、読むべき本が手元にないようなとき、よく携帯電話からネットにアクセスしてニュース記事を読んだりするようになっている。ケータイ小説というひとつの分野について、本という形になった作品を読むことにはまだまだ違和感があるのだが、携帯電話という新しいツールから生まれたひとつの物語形式が、今後どのような展開を見せるようになるのかは、個人的にも気になるところである。(2007.11.30)

ホームへ