【小学館】
『おがたQ、という女』

藤谷治著 



 量子力学の世界では、量子の位置というのは確率的にしかとらえられない性質のものであって、観測者がその量子を観測することによって、はじめてその位置が特定される、ということになるらしい。逆に言えば、観測者がいないときの量子というのは、どこにでもあると同時に、どこにもないということにもなる。よく「シュレーディンガーの猫」のたとえで語られる量子論は、私たちの感覚からすればなかなか納得しがたい、矛盾をはらんだ奇妙な世界であるが、こうしたミクロの世界の不思議が、現代思想をはじめ、さまざまな分野において大なり小なりの影響をあたえたであろうことは、想像に難くない。

 たとえば私という個人の性質が、たったひとつの確固とした存在としてこの世界にある、ということについて、私たちは疑う余地もないくらいあたり前のことだと思い込んでいるが、これが対人関係という点でとらえられたとき、私という個人の性質が観測者によってまちまちであるというのは、けっして珍しいことではない。もちろん、観測者が個人の性質の一部しかとらえていない、という見方もできるし、その対象に接する時間が長ければ長いほど、よりその本質に近づけるのかもしれないが、なかには同じ人物についてまったく正反対の印象をもつ場合もあることを考えると、私という個の本質というものが、はたして本当にあるのかどうか、という疑問が生じてきたとしても、無理もないことだと言える。

 物事の本質というもの、誰がどんなふうにとらえても、そこにただひとつの真理がある、という観念が崩れ、相対主義が台頭しているのが現代という時代であるとするなら、私という個を確定するのは主観たる自分自身の意思ではなく、むしろ無数にある自分と他人との関係性のなかにおいてしかない、ということになる。本書『おがたQ、という女』は、まさにそのタイトルが示すように「おがたQ」と名乗るひとりの女性のことを書いたものであるが、この作品が目指しているのは、個人としての性質を左右する人間関係を意図的に断ち切ったうえで、それでもなお成り立つ個人というものが存在しえるのか、存在しえるとすれば、それはどのような性質たりえるのか、という点だと言える。

 そうなったらあたしは、世界中のどんな映画とも繋がっていない、完全に孤立した映画を作るのだ。木の股から生まれた映画を。――(中略)――いつかそのようなものが自分の手で作られると思うだけで、おがたQは勝利と幸福感で高揚した。

 おがたQという奇妙な名前は、当然のことながら本書の主体である女性の本名ではない。だが、本書において彼女の本名というものは、さほど大きな意味をもつものではない。中学生だった頃に起こったある事件がきっかけで、家出のつもりで熱海まで行ったときに、そこで目にした映画のポスター ――主演俳優の頭文字と、「Quest for Love」という映画のタイトルのイニシャルをつないだ結果として、「おがたQ」という名前が生まれたというエピソードがあるのだが、重要なのは、いっけん何のつながりもない映画のポスターの文字の配列から、今後の自分の形づくる名前を見出したという点であり、それこそが彼女の望む「木の股から生まれ」る行為を、自分自身にあてはめたということでもある。

 じっさいに本書を読み進めていくとわかってくるのだが、おがたQと両親との関係は、修復不可能なほど冷え切っている。もっとも、見かけ上はけっして仲が悪いという感じではないのだが、自分たちの都合で勝手に子どもを捨てたり連れ戻したりするという態度に、親の愛情というものの欠片も感じられなかったおがたQにとって、両親というのは、ただ血がつながっているという、ただそれだけの理由で自分を縛りつけ、理不尽に決められた枠のなかに押し込めようとする存在でしかなかったとしても不思議ではない。そして、たんに利用するかされるかの関係と言ってもいい家族という形、そんな両親の存在を心底侮蔑している彼女の思考や行動が、そうした関係からの逸脱という方向性をもつことになっていく。

 本書のなかに描かれているおがたQは、両親から離れて暮らした石垣島での数年間を除き、常にさまざまな伝説や風評、つくり話や噂によって彩られている。それはときに尾びれがつき、また彼女自身の容貌の美しさや人並みはずれた頭の良さ、そして何より「おがたQ」という名前そのものの不思議さも相まって、ときに現実にはありえないような話へと発展していくこともしばしばなのだが、そうした噂――自分の意図していない自分のイメージが勝手に形成されていくことを、なかば望んでいるようなそぶりさえあるのも、自分が両親の娘であるという事実への叛逆だととることもできる。だが、それはあくまでひとつの要因であって、おがたQという女性の本質をすべて表わしているわけではない。

 完全に孤立した、誰ともその関係性をもたれることなく存在していく「おがたQ」――くり返しになるが、それこそが彼女の目指す本質であり、それゆえに彼女はその存在自体がひとつの魅力となるのだ。それは、彼女が大学になって知り合うことになる、海野鉄夫という青年との対比という形でもあきらかだ。「おがたQ」という命名以来、彼女は映画漬けの日々をおくり、大学も映画の創作を第一においた選択をするのだが、彼女が映画というものをあくまで単体のものとしてとらえ、評価しようとするのに対し、海野鉄夫は映画どおしの関連性、俳優や監督による分類や系統立てというものを重視するような思考をする。そしてそういう意味では、おがたQにもっとも近い位置にいたはずの海野鉄夫は、しかしその対極的な性質ゆえに相容れることのない運命を背負っている。そのことをもっとも端的に示すのが、本書冒頭にある「おがたQはひとつの暗い謎」だという海野鉄夫の独白である。

 けれど彼は今もって何ひとつ知らず、これからも知ることはできないだろう。

 だが、その言葉はそっくりそのまま、本書そのものにもあてはまることだ。でなければ、ときに差し挟まれる、いかにも現実離れしたファンタジックなエピソードが、そのまま載せられている理由がつかなくなる。そう、本書になかに描かれるおがたQもまた、「受け手の数だけ解答を持つ特異な存在」のひとつでしかなく、依然として「謎としての女優」のままである。そして、完全に孤立した映画の撮影を夢みていた彼女が、いつのまにか映画をとられる側、つまり女優となっていたという事実は、言ってみれば彼女自身の主体が、自分自身のコントロールから離れ、多くの人たちに共有されることによってかぎりなく拡散されていくことを意味する。

 血のつながりによる関係を捨て、過去そのものを捨て、木の又から生まれなおすことを望んだおがたQ――だが、そうした個人を規定するさまざまなしがらみを断ち切ることはけっして容易ではないし、また断ち切ったと思っていても、意外なところからそのつながりは露呈していくことになる。そもそも、人は完全に孤立して、なお存在しつづけることができるのだろうか。そんなふうに考えていくと、本書のラストはまさにそうなるしかない、と納得せずにはいられなくなる。けっして理屈ではとらえられない「おがたQ、という女」の魅力と伝説、そしてその奇妙な遍歴の行方を、ぜひとも見守ってもらいたい。(2008.05.10)

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