【文藝春秋】
『オブ・ザ・ベースボール』

円城塔著 
第104回文學界新人賞受賞作 



 約一年に一度の割合で、人が空から降ってくるという町、「ファウルズ」。今回紹介する本書『オブ・ザ・ベースボール』は、そんな不条理極まりない町を舞台とする作品であるが、そもそもなぜ人がこの町めがけて降ってくるのか、なぜ一年に一度という期間なのか、という問いかけに対して、納得のいく回答はいっさい書かれていない。それどころか、その町には人が降ってくるという現象以外に、特徴らしい特徴がない。海はおろか山すら周囲になく、広がっているのは麦畑ばかりというこの町で、語り手である「俺」はレスキュー・チームの一員としてはたらいている。レスキューするのは、もちろん空から降ってくる人だ。だが、チーム設立以来、その目的をはたせたことは一度もない。そして、レスキュー・チームであるにもかかわらず、彼らは役所から支給されたバットをもっており、勤務時間の大半を素振りや走り込み、そして人が落ちてこないかと空を見上げることで過ごしている。

 なぜレスキューなのにバットなのか? 降ってくるのは人であって、球ではない。もっとマシな支給品がありそうなものなのに、語り手をふくむレスキュー・チームの一員は、そのバットを持ち歩き、そしてバットで成しえる唯一のこと――落下者をバットで打ち返すための鍛錬にはげんでいる。もっとも、本書には語り手のほかには、同じくレスキュー・チームの一員で、酒の飲める店を経営しているジョーくらいしか登場せず、他の一員がどこで何をしているのかはほとんど書かれていない。そしてジョーはたいていは飲んだくれており、語り手は日課としてバットを振るい、走り込みをする。

 念の為繰り返しておけば、俺たちはレスキュー・チームであって、ベースボール・チームではない。俺たちの持つのはグローブやミットではなくバットであって、マットではない。

 人が空から降ってくるという奇天烈な出来事があり、そのことを何とかしようとした結果として生まれてきたレスキュー・チームであるが、なぜか支給されたのはユニフォームとバットであり、チームは九人で、そして全員がバッターとなってしまっている。だが、そもそもなぜ人が降ってくるのかという理由は置いておくとしても、語り手をふくめたチームの存在は、その存在理由となっている現象と同じくらい、いや、あるいはそれ以上に奇天烈なものである。なぜなら、彼らはレスキュー・チームであってレスキュー・チームではなく、ベースボール・チームであると同時にベースボール・チームではないという、非常にあやふやな存在と化しているからである。

 何のためにそのようなチームが組まれたかと言えば、もちろん、人が降ってくるという現象のためである。だが、少しでも常識をはたらかせてみれば、上空からものすごい勢いで落下してくる人を――しかも、落下が開始される時間も、落下地点もてんでバラバラという状況のなかで――仮に目視できたとして、そこからできることなどほとんどないのだ。そして、地面に叩きつけられた人間は、言うまでもなく即死であり、レスキューの余地などありえない。であれば、レスキュー・チームがバットを持っていようと、マットを持っていようとけっきょくは同じことだとも言える。彼らの存在意義は、人が降ってくるという、ほぼ絶対的にどうしようもない現象に対して、少なくとも対応はしているのだというポーズのためだけにあり、そうすることで、少なくともこの町の住人の心の安寧を守っている、ということにはなる。

 存在すること自体が目的という、ある種転倒した存在としてのレスキュー・チーム――そこにいったい、どのような価値があるのかという疑問が、この作品のなかにはある。それは、そもそも自分が何のために存在しているのか、という根源的なテーマにもつながるものであり、本書に収められたもうひとつの作品『つぎの著者につづく』のなかでは、語り手の書いた文章が、語り手のまったく知らない別の人物の文章と類似しており、その人物のことを調べていくうちに、そもそもそんな人物が存在するのかどうかすら疑わしいという状況となっていく。さらにその著作を手に入れようと古書店に行ったところ、たしかにあったはずの本が失われており、逆に店主から本を探してきてほしいと依頼されるという転倒ぶりを見せており、そもそも自分の書いたはずの文章が、はたして本当に自分の意思によるものなのか、という疑問へとぶつかることになるのだ。

 ライ麦畑から落っこちる人を事前につかまえる人になりたい、というモラトリアム青年の独白を書いたサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のパロディという側面ももつ『オブ・ザ・ベースボール』では、基本的に語り手をとりまく状況は何ひとつ変わらない。人が落ちてくる理由について、いろいろな分野の学者がさまざまな見解を示してみせるが、仮にそのなかのひとつが真実であったとして、そもそも人が落ちてくるという現象そのものを食い止めることができるわけではない。そういう意味で、本書の世界には退廃的な雰囲気が漂っている。だが同時に、それでも人々は、何かを成し遂げようという意思を捨てることはできないし、たとえその中心に辿り着くことはできなくとも、徒労とわかっていながらその周囲をぐるぐる回ることをやめられない。それは、あるいはただの惰性なのかもしれない。だがそれでも、そこから何かが見出されるのかもしれない。そんな、ほんのちょっとの前向きさだけが、本書の世界を支えている。

 オールライト、オールライト、オールライト。大丈夫。全ては正しい。正しいに決まっている。決まっているが故に正しい。

 落下する人を助けるためのレスキュー・チームが、バットを手にしているという理由で落下する人を打ち返す訓練をつづけ、しかもそもそものはじめに、落下する人のところにまで辿り着けないという転倒に転倒を重ねるように書かれている『オブ・ザ・ベースボール』に、知らない人間の完全模倣を試みようとしたところ、その人物の著作はおろか、その存在自体がいぶかしいという『つぎの著者につづく』――話が進むうちに、そもそもの目的すらわからなくなってくるような本書であるが、もしその届かない目的に届いたとして、そこから何が生まれ、あるいは変化していくことになるのか――あるいはそれでも何も変わらないのか――は、本書を読み終えた人だけが判断しうることではある。(2009.12.10)

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