【講談社】
『おどるでく』

室井光広著 



 ちょっと古い話になるが、「麻婆」を「あさばあ」と読み間違えて、「麻の服着た品のいいお婆さん付き!」などと言っているカップラーメンのCMがあったのを覚えているだろうか。「麻婆」ということばが持っている本来の意味から逸脱し、まったく別のイメージを生み出してしまったそのCMを、そのときは爆笑しながら見ていたのだが、そんなことば遊びに似たようなことを小説の中で行なおうとしたのが、室井光広の『おどるでく』である。

 本書で中心に据えられているのは日記である。しかも、それはロシア語で書かれている。といってもロシア語の文法にのっとった文章で書かれているのではなく、日本語の内容がロシア文字で表音化されているだけの、ローマ字日記ならぬ、ロシア字日記なのである。語り手である「私」は、実家の屋根裏で見つけたこの日記を「翻訳」することで、そこに書かれたことの詳細を思い出したり、補足したり、また日記には書かれなかった事実などを思い起こしたりする。
 ロシア字日記が日本語で書かれた普通の日記と違うのは、「書くことの内容にしばられずに済む」ことだという。「おどるでく」はロシア字でодорудзкуと表記するらしいが、たんにこれを「踊る木偶」などと訳して意味を固定化したりはしない。「おどるでく」は「踊る木偶」であると同時に「オドラデク」であったり、また「踊る字句」であったりする。

 書かれた内容よりもむしろその"書きかた"が限りなく重要である文書(刊行されたか否かを問わず)がこの世界には存在しているのではないか。そんな心持を誘発する雰囲気がロシア字日記にはただよっている。(『おどるでく』より抜粋)

 もしそれが本当だとするなら、わざわざロシア字で書いたその日記を日本語に「翻訳」するという行為は、ロシア字日記の本来の内容から逸脱することを意味する。「麻婆」ということばに「あさばあ」という音をあてることに、ことば遊びとしての面白さ以上のものがないのと同じように、ロシア字日記を「翻訳」することで生まれた過去のエピソードもまた、なんら意味のない物と化している。そもそもそのエピソードが真実を語っているかどうかなど、いったい誰が判断できるというのだろうか。だが、本書にロシア字日記の全容が掲載されていない以上、読者は語り手「私」が「翻訳」した過去のエピソードを読んでいくしかない。中心にあるロシア字日記に近づけないまま、それでもその周りを覆う過去のエピソードを徘徊する読者の姿に、ふと「おどるでく」の姿を垣間見る。

 表題作の『おどるでく』にしろ、もうひとつの収録作である『大字哀野(おおあざあいの? おおじあいや? そもそもこのタイトルの読み方がどれほど重要だというのか!)』という作品にしろ、語られている内容はたいして面白くはない。だが、その面白くない内容を逸脱したとき、「麻婆」のCMのおかしさが生まれてくる。文章の内容を読むのではなく、ことば遊びを楽しむようにして読む、これが『おどるでく』の正しい読書法なのである。(1998.11.25)

ホームへ