【文藝春秋】
『溺レる』

川上弘美著 



 人を好きになる、ということに対して、おそらく複雑な思考――自分がなぜこの人を好きなったのだろう、ということを深く考える必要はない。それは息をするのと同じくらい自然なことだし、太陽が東から昇って西へ沈んでいくのと同じくらい、当たり前のことだからだ。そんな想いを、川上弘美という作家は持っているのではないだろうか、と考える。そして、人間がひとりひとりまったく異なる個性を持っているように、人を好きになるときの気持ちや、それをどのような方法で相手に伝えるのか、ということに関しても、わざわざ型にはまったような方法をとる必要もない。そこにはさまざまな想いがあり、いろいろな形があるはずであり、そのいずれも間違っているというわけではないのだから。

 本書『溺レる』に収録されている八つの短編は、いずれも一組の男女の間に生まれる微妙な関係を描いたものである。物語そのものを見るかぎりでは、著者らしいというべきなのだろうか、とりとめのない内容のものが多い。『さやさや』はメザキさんという男の人と蝦蛄を食べに行ったあげく、終電を逃がし、車も通らないような道をふたりして歩きつづける、というものだし、『溺レる』は、ありていに言えば駆け落ちの話である。『亀が鳴く』では、「全うできない」女の元を男が去ったあとに、飼っていた亀が残されているだけであるし、『神虫』などは、青銅の虫を送られたあげく、ウチダさんという男に「虫のような顔だ」と言われてどうこうといった話だ。こんなことを書いていても全然説明にならないほど、内容はとりとめがなく、そしてこれは『いとしい』などにも共通して言えることであるが、たしかに男女の微妙な関係を描いているのは事実なのだが、そこにはおよそ「恋愛」という言葉が持っている、ハーレクイン的要素がおそろしいまでに排除されている。それは、セックスするという行為ひとつをとっても、「アイヨクにオボレる」といった言葉を使ったり、また「行為におよ 」などという、なんとも間接的な言いまわしを使っているところを見ても明らかだろう。『溺レる』の駆け落ちの話にしても、ふたりして愛を語るような場面はほんのわずかで、それよりもどこかの定食屋で焼肉定食を食べたり、新聞配達をはじめたモウリさんが自転車にうまく乗れる乗れないといったことを話したりするほうが印象深く感じられるし、『可哀相』などは、少しSMっぽい要素があるにもかかわらず、まったくと言っていいほどいやらしい感じがしない。男と女の関係という、見方によってはもっとも生々しいものを扱っているにもかかわらず、本書の作品はそれをどこか遠い世界の話であるかのように書いているような感じがするし、あえてそのような書き方をしているようにも思える。

 自分が大切に思っている人のことを思い浮かべてほしい。そのときに、その人の何がまず浮かんでくるだろうか。セックスしているときのことだろうか? 「愛している」という感情であろうか? いや、おそらくその人の、普段なら見落としてしまいそうな何気ないしぐさや表情、そしてそんな表情を浮かべたときの周囲の状況が、意外なほどはっきりと浮かんでくるのではないだろうか。よく、テレビドラマでもポップミュージックでも、ありとあらゆるところでいろいろな人が男女の愛を語り、あたかもそれが唯一絶対の形であるかのように信じ込まれ、じっさいにそのようなカップルが我が物顔で街中を闊歩している今の世の中であるが、それぞれの「人を好きになる」形というのは、それぞれ千差万別であるはずであり、相手に対する感情も、人によっていろいろなものがあるはずである。「愛している」という言葉――じつは、これほど曖昧模糊としたものは、他にはないだろう。角度を変えれば、メディアによって強烈なイメージのみ与えられた、じつに都合の良い言葉であるとも言える。「愛している」「好きだ」という言葉にある、ある種の胡散臭さを、著者は充分意識しているからこそ、あえてそのようなものを自 の書く物語からは遠ざけているのではないだろうか。

 ウチダさんとおこなっている最中にウチダさんとのおこないをあさましいと思ったこともあるが、あれはあさましいものではなかった。ただ真面目におこなっていることは、あさましくもなんともない。それならいっそ、アイシテルンデスという言葉のほうが、ずいぶんとあさましい。アイシテルンデスという言葉を臆面もなく湧きあふれさせるわたしという容れものが、ずいぶんとあさましい。(『神虫』より)

 昔から日本には「愛している」でも「好きだ」でもなく、ただ「いとしい」という言葉があり、それは相手全体を指すのではなく、ある日何気なく見せる相手の行動に対して抱く感情としてとらえたほうがふさわしいように思える。それは、『百年』のように自縛霊のような存在になっても、あるいは『無明』の男女のように不死の存在になっても、けっして変わることなくいだきつづける強い思いなのだ、ということを、著者はこの短編集に込めたかったのではないだろうか。(1999.11.29)

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