【光文社】
『オブラディ・オブラダ』

佐藤弘著 



 どんなに平凡で退屈な、それこそ毎日が同じことのくり返しのようにしか思えない日常のなかにあっても、わたしたちの頭は常に何かを考えているし、私たちの心は絶えず何かを感じとっていたりするものだ。そうしたものの大半は、とるに足らないようなささいな事柄であり、仮に自身の生涯をつづった自伝が書かれるとしたら、間違いなく余分なものとして切り捨てられてしまうであろうものであるが、だからといってそれらすべてが無意味だと結論づけてしまうのは、あまりにも寂しい。私たちはいつも論理的な言動をとっているわけではないし、ときには自分でも何を考えているのかよくわからないようなことをしでかしてしまうこともあるが、そうした余分なもの、生物として生きていくには無駄な部分を、あえて抱えこんで生きていくのが、人間を他の動物とへだてる決定的なものだという思いがある。

 本書『オブラディ・オブラダ』は、真一と呼ばれる高校三年生の少年を語り手とした、ごく何気ない日常を描いた作品である。ただそれだけなのかと訊かれれば、まさにそのとおりだと応えるしかないのだが、それでもなおその少年の高校生活に魅力を感じてしまうのは、それが私たち読者も体験してきた、しかしあまりにもささやかなものであるがゆえに、日々の生活のなかに埋没してしまった感覚をふと思い起こさせる要素に満ちているからに他ならない。

 ただ僕に切実なのは、壊れていく過程だとか、全てが壊れてしまった後に残った思い出ではなくて、四人で自転車をこぎながらデニーズに向かっている今なのだ。

 真一は高校生ではあるが、とくに部活動に専念しているわけでも、大学受験のための勉強に打ち込んでいるというわけでもないし、かといって世のなかすべてに対して斜に構え、何かに反発するかのようなとげとげしさをもっているわけでもない。言ってみれば、世間一般の高校生というには少しばかり怠惰な生活をおくっている少年ということになるのだが、そんな彼の唯一の彼らしさがあるとすれば、それは大学生の陽子が大好きだというその気持ちである。だが、その陽子は同じ大学生の古谷幸助のことが好きで、しかし彼は彼女のことをとくに好きではないと公言しているし、おまけに古谷は年上の女性に金で買われるような、ちょっといかがわしい仕事をもっていたりする。

 本書の冒頭では、真一と陽子が古谷のアパートにいるところからはじまり、そこに古谷が戻ってきてどうでもいいようなことを喋ったり、録画したお笑い番組を観るともなしに観るという展開となり、まるでその場に三人がいることが日常であるかのような雰囲気なのだが、彼らの「好き」という気持ちが常に一方通行であることが、本書をしばらく読み進めていくとわかってくる。だが、そのことで三人の関係がぎくしゃくするとかそういうことはなく、むしろ三人が三人ともそれぞれへの思いを承知していながら、しかしその思いに対して何かの決着をつけようとしないまま、あえて現状維持をつづけているような状況にある。

 単純に誰かが誰かに片想いをしているという意味だけをとらえるなら、本書は恋愛小説として位置づけることもできなくはないが、作品のなかでそれらの恋が何らかの進展をとげることはなく、また真一も陽子も無茶をしてまで相手を振り向かせたい、モノにしたいとは思っていないふしがある。誰かのことを好きになったら、その人と最終的には恋人同士になりたいと考えてしまうものだし、その人の気持ちが自分に向いていないのなら、なんとかして振り向かせたいという欲だって出るものだ。そして、そうした恋愛感情が人間関係に絡んでくると、えてしてその関係は緊迫した、あるいは泥沼のようなものになっていくのが常なのだが、本書に関しては、そうした「常識」がことごとく崩れ去っている。その一点をとらえてみても、本書が既存の言葉では言い表すことのできない人間関係を表現しようとしているところがある。そしてその焦点となっているのは、何らかの結果ですべてを判断するのではなく、それこそ毎日の生活のなかで置き忘れられていくもの、とるに足りないちょっとしたノイズのようなものだと言うことができる。

 埃だけがきらきらと光っていた。埃が積もっていく音が聞こえている気がした。いや、僕には聞こえている。早朝の誰もいない外に雪が積もっていくのを、布団の中で聞いているように、埃がゆっくりと落ちていくのをきっと見ている。

 友人たちと交わす他愛のないおしゃべり、学校のグラウンドで唐突にはじまるサッカー遊び、帰り道でふと漂ってくる、どこかの家庭の夕食の匂い、そしてどこか面倒くさくも夢中になっていく文化祭の準備――本書にはそうした、誰もが一度は経験したことのある日常の風景が、ことさら丁寧に書かれている箇所が多い。それらは物語の展開という意味では、たんにその場の雰囲気を物語る以上の要素のない、なくてもさほど影響のない部分ばかりであるが、本書はむしろそうした要素によってひとつの小説を完成させていこうとするところがある。そしてある少年の恋愛という意味では、真一はその恋心の成就という「成果」を出すことができず、そういう意味では敗者であるとさえ言うことができるのだが、その結果に対する悲壮感は、本書にはない。

 それは、たとえば古谷の「誰かを好きになったことがないから不幸せなんて、そんな理不尽なことがあってたまるかよ」といった台詞のなかにも集約されているものだ。自分が今感じていること――それは環境が変わればおのずと変化するし、いずれは記憶の奥底に忘れ去られる程度のものでしかないのかもしれないが、けれどもそうしたささやかなものを少しずつ積み重ねていくことで得られる幸せもあるのではないか、という問いかけでもある。それこそ、ふだんは目に見えない埃が、いずれは雪のように降り積もっていくかのように。

 誰かを好きになったからといって、それが成就されなければならないという法はないし、無理に勝ち取ってまで得たいと思うようなたぐいの恋なのか、という思いもある。今を生きる私たちに求められているのは、周囲がどうであろうと、それでも自分はこれでいい、と思えるような何かを見出すことなのかもしれない。(2010.05.19)

ホームへ