【集英社】
『オーダーメイド殺人クラブ』

辻村深月著 



 現代日本の教育問題――おそらく全国で起こっているであろう際限のない学級崩壊や度がすぎるいじめといった問題の根底にあるのは、戦後日本の教育が推し進めていった「競争」のための能力開発にある、という説がある。つまり、日本の教育制度に何か根本的な問題があって学級崩壊やいじめが生じているのではなく、これまでの学校教育を貫く「教育イデオロギー」の結果としてそうした現象が必然として起こっている、というものである。

 たとえば最近のいじめの特徴として、その原因の特定がかぎりなく難しい、というのがあるらしい。つい最近までいじめられる側だった生徒が、次の週には別の誰かをいじめる側にまわっている。誰が、何のきっかけでいじめのターゲットになりえるのか、その当事者すらわかっていない、言い換えれば、誰もがいじめの被害者にも、加害者にもなりうるという現象がクラスを支配していることになるのだが、個人の成長を助け、個性を伸ばしていく場としてこれほど不適切なルールもほかにない。だが、それが教育における競争力向上の効率化という視点からとらえられたときに、このいじめの「ルール」がこのうえなく効率的なものであることが見えてくる。なぜなら、ある一定の集団のなかで自分の学力を上げることと、自分以外の誰か、つまりは競争相手の学力を下げることを比較したときに、後者のほうが費用対効果としては効率が良いからである。

 出る杭は打たれる、というのは学校にかぎらず、およそ日本の社会によく見られる悪習のひとつでもあるのだが、こと学校内におけるそれはもはや「効率化」が行き過ぎて集団自殺をしようとしているかのように見えてくるのは、はたして私だけだろうか。今回紹介する本書『オーダーメイド殺人クラブ』の大きな特長のひとつとして、そうした学校の閉塞感がこのうえなくリアルにとらえられている、というものがある。

 夢見たことなら何度もある。ある日急に教室に、誰か、私も尊敬できるような大人がやってきて、肩に手をおいて「君は特別だ」とはっきり告げてくれること。――(中略)――だけど、そんな大人が現れない以上、特別になるためには命でも投下するしかないのだ。それが空っぽな、まだ何も成していない私たちにできる今の時点の精一杯。

 本書の語り手となる小林アンは、雪島南中学に通う中学二年の女子であるが、その彼女の言葉のなかによく出てくるのが「派閥」や「ヒエラルキー」といった単語である。誰が、どんなふうに決めたわけもないのに、見た目の格好良さや派手さ、可愛さといった要素からいつのまにかランク付けされてしまっているという、ある意味で理不尽きわまりない、逆にいえば何の中身もない学校版カースト制度のことであるが、語り手のアンはそうした中身のないヒエラルキーにうんざりながらも、そのいっぽうで、そうしたヒエラルキーにおける自分の立ち位置を人一倍気にしているようなところがある。たいした理由があったわけでもないのに、斉藤芹香を頂点とする女子のグループから爪弾きにされたり、「赤毛のアン」だけが唯一にして絶対の価値観であり、ともするとその価値観を無遠慮に押しつけてくる母親のことをくだらないと思いながらも、そのヒエラルキーや価値観に依存せずにはいられないという、矛盾した思いが彼女のなかにある。

 自分が特別な存在だという思い込みは、それこそ「中二病」という言葉が象徴するように、その手の年代の少年少女には特有の心理のひとつであるが、アンの場合、その手の妄想をふくらませるには「死」という媒体の力を借りる必要があった。逆にいうなら、中学二年の女子という、なんの変哲も特徴もない、空っぽな少女に過ぎない自分を、他ならぬ自分の意思で特別なものにするためには、今の自分がたしかにもっている「少女」という価値を利用するしかない。それゆえに彼女は、新聞やメディアで毎日のように騒がれている、同年代の殺人事件や自殺といった記事に惹かれずにはいられない。そして、そうした事件が「ありふれた事件のひとつ」として片づけられてしまうことに「惜しい」と感じてしまう。せっかく自分の命を使ったのに、ほんの二、三日だけ話題になって、すぐに忘れ去られてしまうことに対して。

 本書はそんな小林アンが、事件において「少年A」となる可能性を秘めたクラスメイトの男子である徳川勝利とともに、すべてを納得づくの「殺人事件」を仕立てあげる過程を書いた作品ということになる。つまりアンは徳川に「自分を殺してほしい」と頼み、逆に徳川はアンに「自分に殺させてほしい」と頼む、双方の欲望を叶える秘密のパートナー関係を結ぶことになる。そしてその瞬間から、本書の読みどころはこのふたりがいつ、どのようにその「Xデー」を決行することになるのか、という点になるのだが、ここで重要になってくるのは、他ならぬ自分自身の死であるにもかかわらず、その最高の演出を求めて計画を練っていく過程の、このうえない軽さである。本書を読み進めていくとわかるのだが、徳川勝利についてはともかく、物語の主体である小林アンについては、自身はこのうえなく真剣なのかもしれないが、およそ死というものについて、リアルな想像ができているとは到底思えない底の浅さがどうしても目立ってしまう。それゆえに、私たち読者にとってはまず、彼女に対して「本当に死を決行するのか」という点こそが物語の焦点となってしまう。

 まるで、死ぬということに対してロマンを抱いているかのように見えるアンの言動は、どうしようもなく軽いし、それこそ「中二病」を思わせる痛さすら感じてしまうのだが、そうした思春期の少年少女にありがちな自己陶酔の一面は、当然のことながら著者によって意図された演出だと言える。だが、その「軽さ」もふくめ、おそらく今の中学生が意識するしないに関係なくいだいているであろう、学校という閉鎖空間への息詰まるような感覚は、まぎれもないリアルだ。彼女たちにとって、学校と家庭というのは、彼女たちが知りえる全世界であり、そこでうまくやっていけなければ、もはや逃げる場所など存在しない。学校が生徒たちにとっての生存競争の場であると看破したのは、貴志祐介の『悪の教典』に出てくる片桐怜花であるが、学校にも家庭にも「自分だけの場所」を確保できなくなった少女が、次の逃げ場所として「死」を選んでしまうというのは、他の逃げ場所を知らない――誰からも世界の広さを教えてもらっていない彼女たちにとっては、しごく当然の帰結であり、唯一のリアルでもある。

 その選択を「安易」といって非難するのは簡単だ。だが、そういって非難する私たち大人にしたところで、会社が行き詰ったり借金を重ねてしまったりといった、記号のような要素であっけなく自殺という道を選んでしまう。べつに会社が倒産しても、借金が増えていっても、生物学的な生命が脅かされるわけではない。にもかかわらず、そうした要素が自殺の要因となってしまうところに、私たちの生物としての弱さが露呈してしまっている。そういう意味で、学校という場は私たちの社会の縮図だと言ってもいい。

 みんなが流されるコースから、降りる。

 ふつう、ミステリーなどの世界において、死というものはすでに起こってしまった事実として書かれることが大半だ。というよりも、生じてしまった「死」を起点として物語が展開していくことになるのだが、自らの意思で設定した「死」を目標として展開する物語というのは、他に例を見ない斬新な設定である。そして本書における「死」が、小林アンにとって逆に「生きる」ための糧となっているという逆転現象がそこにはある。そんな彼女を殺す犯人役を引き受けた徳川勝利の動機もふくめ、このつたなく軽いオーダーメイドの殺人計画がどのような結末を迎えることになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.07.10)

ホームへ