【講談社】
『おしゃべり怪談』

藤野千夜著 

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 たとえば今、私自身の置かれている立場からとらえるなら、日々の暮らしはおおむね順調だ。裕福というわけではないが、毎月給金を出してくれる会社でそれなりにうまくやっていけているし、今のところ病気や怪我もしていない。少なくとも、どこかの紛争地域やスラム街のように、常に命の危険にさらされているわけでもないし、日々食うものにも事欠いたり、住む場所もないような状況におちいっているわけでもない。そういう状況を幸せというのであれば、今の私は充分幸せだと言えるのだろう。だが、日々の暮らしに安住していることと、不安がまったくない生活ということとは、けっしてイコールで結びつかない。どれだけ幸福な生活を満喫していたとしても、漠然とした不安や不満といったものは、ふとした瞬間に胸をよぎることがあるものだ。

 人が死んだり、一家が離散したり、あるいはいわれなき暴力におびやかされるといった事柄は、その当事者にとってはたしかに大きな不幸ではあるが、ではそうでないような小さなわだかまりや、ちょっとした不平不満というのは、無視してしまっていいものなのだろうか。なんとなく相手が自分の話をまじめに聞いていなかったり、自分の真剣な意見が軽くあしらわれたり、といった人と人との関係におけるちょっとした摩擦や軋轢というのは、ごく普通の日常生活のなかでもわりとよく起こることである。けっして生き死にに直結するようなことではない、しかし日々の生活のなかで感じてしまう、自分がどこかないがしろにされている、という感覚は、ほんのささいなことだからという理由で、放っておいてかまわないものなのか――本書『おしゃべり怪談』は、表題作を含む四つの短編を収めた作品集であるが、いずれの短編でも共通しているのは、そうした日常におけるささいな違和感や疎外感といった感覚を、物語世界のなかで再構成しようというひとつの試みだと言える。

 たとえば、『BJ』という作品のなかで、ヤマザキハナコはタナカタカオと結婚し、新居である賃貸マンションで暮らしはじめるのだが、彼女はその新居のなかになにかがいるという違和感を覚えるようになる。「首筋がすうすうする。肩が重い。二の腕がぷるんと震える」といった事柄に、ハナコはただの生理現象ではないなにかを感じてしまうのだが、タカオのほうは何も感じないらしく、ハナコの言葉を聞き流してしまう。こんなふうに書いてしまうと、まるでホラー小説のような展開なのだが、物語のなかで彼女が感じる違和感の正体については最後まで明らかにされることはない。ハナコによってBJ(ベビー・ジェーン)と名づけられたその「存在」は、彼女がちょっとした失敗のすべてをBJのせいにして欝憤を晴らすようになってから、まるで本当にそんな何かがいるかのようになってしまい、そんなハナコに対してタカオは徐々に距離を置くという結果をまねくことになるのだが、ではハナコがBJのせいにしている日々の欝憤とは何かと言えば、たとえば籍を入れるときにどちらの姓をとるかでタカオから何の相談もなかったとか、タカオの身勝手のせいでマンションの自治会の会合に出なければならなくなったとかいった、どこかないがしろにされているという感覚である。

 ハナコとタカオは新婚だ。であるにもかかわらず、極端にベタベタ仲良くしているようなこともなく、かといって極端に冷めているというわけでもない。親しい人たちがすぐそばにいるにもかかわらず、まるで自分だけが別の世界に閉じこめられているかのような異質な感じは、表題作『おしゃべり怪談』のように、会社の同僚と徹夜で麻雀していたヤスコたちと、そんな彼女たちを人質にして雀荘に立てこもった「おしゃべりな男」の関係のように、露骨な形で提示されることもあるし、あるいは『ラブリープラネット』におけるキリコとホリイのように、親しい関係でありながらどこか妙な違和感を匂わせる、という形の場合もある。そして、作品内において中心人物となるのがいずれも女性であり、その相手が必ず男性であることを考えると、彼女たちが抱かずにはいられない違和感というのが、たとえば『BJ』における夫婦の姓のように、女性であるがゆえの違和感であることが見えてくる。

 自身の性については生まれつきのものであって、これは自身の力でどうにかできるようなものではない。自分が精神的にどう思うかは別として、肉体として存在する自身は、男であればどうしようもなく男であり、女であればどうしようもなく女である。そうした、どうしようもない事柄にかんする漠然とした不安や不満は、男性という存在が傍にいればよりいっそう顕著なものとして表に出てくることになる。とくに『ラブリープラネット』の場合、数年前に失踪した兄が「姉」になって戻ってきたというエピソードがあり、そうした「姉」にたいするキリコの困惑の度合いは、性差も超えた「姉」と比較して、性差を超えられず、依然として女であるがゆえのわずらわしさにとらわれてしまっている、という意味においても大きなものとなっていく。

 本書の短編において中心となる女性たちは、自身が感じる漠然とした違和感、疎外感、孤独といったものを、とくになんてことはないと思い込み、日々の生活をつづけていく。だが、それはたんに彼女たちが自身の心情を的確な言葉で表現できないだけであって、問題自体がなくなったというわけではない。それは、ともすれば気づかずに忘れてしまっていたかもしれないしこりのようなものかもしれないが、やはりしこりはしこりであり、そこに厳然として存在するものでもある。登場人物の名前をあえてカタカナにしたりといった表現を徹底する本書において、たとえば体の表面に白い斑点ができて、それが少しずつ広がっていくのを自身ではどうにもできない金魚や、あるいは室内プールという、ガラス張りの空間のなかに漂っている自身といったちょっとした情景は、そのまま登場人物たちの言葉にできない心情を代弁するものとして機能することになる。

 私は男性であって、ゆえに女性の気持ちが理解できるというわけではないのだが、女性であるということが、そのまま人生のいろいろな場面においてどこか損をしているという思いはけっして気のせいではない。『おしゃべり怪談』において、楽しくてやっているはずの麻雀も、どこか正気でないひとりの男に脅されてやらされれば、はてしなぎ苦行へと変わってしまう。どこか理不尽でありながら、そのまぎれもなく理不尽なことを理不尽なこととして訴えることを封じられた女性たちの、声なき声が、もしかしたら本書から聞こえてくるかもしれない。(2007.10.21)

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