【新潮社】
『ナンバー9ドリーム』

デイヴィッド・ミッチェル著/高吉一郎訳 



 あなたは小さい頃、何を夢見て育ってきたのだろうか。そしてその夢は、今もなお実現に向けて膨らんでいるところなのだろうか、それともとっくの昔にしぼんでしまい、今ではその欠片さえ残っていない状態だろうか。

 人は成長するにつれて、自分がけっして世界の中心にいるわけでないことを理解する。世界は私という人間の存在などいっこうに注意を払ってはいないし、私という個がこの世から消えたとしても、世界は以前と変わりなく存続し、何事もなかったかのように動いていく。あまりに圧倒的な現実の力を前にして、それでもなお自身の夢をあきらめずにいることは、けっして容易なことではない。それは、自分が望む世界のありようを、自分以外の多くの他人が同じように暮らしている現実世界のありようへと適用することであり、言わば世界という巨大な存在に対するちっぽけな個の挑戦でもある。

 まぎれもない現実世界に対して、自身の望みをねじこんでいくには、人間ひとりの力はあまりに非力だ。だが、人間には想像力という武器がある。たとえば小説を書くという行為は、自身に押しつけられてくる容認しがたい現実世界を一度解体し、自分にとっては本来こうあるべきだという世界を再構築していくことに他ならないが、そのためには同時に、まぎれもない自分自身と向き合う必要が生じてくる。自分がいったい何者で、何を望み、どこから来てどこへ向かうのか――個人のちっぽけな情念など現実世界の大きく、理不尽で、不条理なうねりの前には容易に流されてしまい、ともすれば自分を見失ってしまうこともしばしばであることを考えると、自分自身を見つめるということ、そしてそこから生まれた夢を持ちつづけることが、いかに大きなエネルギーを消費する行為であるか、理解できることと思う。

 自分を捨て、何者でもない存在としてただ流されて生きていくのは、ある意味楽な生き方である。だが、それが人間として真に生きていると言えるかどうかはまったく別の問題となる。夢見る力というのは、まぎれもない自分を維持するための力でもある。

「ほら、私たちは誰しも作家なのよ。みんな世の中の実情について、なんでこんな世界になったのかということについて物語を書くのに大忙しなの。筋を編み出して、真実と符合するかもしれないししないかもしれない動機を他人に帰属させるのよ」

 本書『ナンバー9ドリーム』の骨子にあるのは、父親探しというひとつの要素である。一人称の語り手となる三宅詠爾は二十歳になったある日、名前も顔も知らない父親と会うために住み慣れた屋久島を離れ、東京に出てきていた。詠爾が知る父親の手がかりはごくわずかなものでしかないし、読者もまた彼がなぜ執拗なまでに父親との対面に固執するのか、明確な理由をつかむことができない。そしてこの「わからない」という要素が、本書ではかぎりない妄想の世界を構築していくひとつの鍵となっていく。そう、たとえば詠爾の父は日本政府における重職を担う身であり、自分はそんな男の私生児なんだという妄想――それは、自分という存在に意味をもたせるにはあまりに小説的であり、リアルではない。だが、自身にとっての確たる存在としての父親像をもっていない詠爾にとって、それは妄想であると同時にまぎれもない現実の可能性としても機能する。

 全部で九つの章で構成される本書において、それぞれの章はふたつの世界を交互に行き来するような形で物語が進んでいく。それはたとえば、前述したとおり詠爾の直面すべき現実と彼にとって都合のいい妄想の世界という組み合わせのこともあれば、現実と過去という組み合わせのこともあり、別の章では現実とゲーム内の仮想世界であったり、小説として創作された虚構だったりするのだが、いずれの章においても共通するのは、けっしてままならない現実世界との対極として、想像力が優位を示し、場合によってはどんなふうにも改変可能なもうひとつの世界があるという対比構造である。

 自分がこの世に存在する意味、自分が他ならないこの世界で生きていく意味――むろん、意味などあってもなくても人は生きていかなければならないものであるのだが、意味の見出せない生は、容易に人の個性を殺してしまうことになる。詠爾にとって、父親と対面することは、自身の存在意義を見出すことと同義であるのだが、現実の世界において、彼が追いかけていく父親は手にしたと思った瞬間、するりとその手からこぼれおちてしまうばかりでなく、詠爾がもっとも想像したくない事実を突きつけてくる存在と化している。自分が父親にとってなんら特別な存在でないという事実――本書のなかで展開するもうひとつの世界は、いわば詠爾にとっての避難場所、たとえ妄想であったとしても、自分自身に特別な意味をもたせるための儀式として機能していると言える。

 本書の著者はイギリス人作家ということであるのだが、物語が一貫して日本を舞台としており、しかも日本人である私が読んでもほとんど違和感なく日本という世界を現出させていると感じられるその博識ぶりには舌をまくものがあるが、それよりも重要なのは、まぎれもない現実世界との対比として示されるもうひとつの世界が、手を変え品を変えていくつも展開していくことのリアルさだ。ゲームのなかの仮想世界や、広大なネット世界、あるいはオタクと称される人たちで構成されるコアなコミュニティ世界など、私たち、とくに現代を生きる若い人たちは、いくつもの世界を同時に行き来することを当然のように受け入れて生きている。詠爾という人物が、そうした現代を生きる者たちの象徴であるとすれば、本書はいくつもの世界――仮想も虚構も現実もすべてふくめた世界を遍歴していきながら、自身にとってのまぎれもない現実の生の形を追究していく物語、ということにもなる。

 だが、まぎれもない現実の生とは何なのか? そもそもまぎれもない自分とはどういうものなのか? 非常に興味深いことに、本書の舞台となる日本はこのうえなくリアルな現代の日本を感じさせるものでありながら、その主人公といえる詠爾をとりまく人間関係、とくに東京に来てからの人間関係については、このうえなく希薄な印象を読者に与える。唯一彼と深い関係性をもつ者がいるとすれば、それは彼の双子の姉である安寿であるが、皮肉なことに、彼女は小さいころに、詠爾が島の雷神に願った大それた夢の一端を叶える代償となるような形で死んでしまった。自分が自分であるために、そして自分が思い描く幸福な家庭を再構築したい、というささやかな個人の欲望は、結果として安寿の死を招くこととなった。そして、安寿の死によって現実世界との接点をうまくとることのできなくなった詠爾の放浪は、その時点からはじまっている。

 夢見ることを望み、まぎれもない自分を見出そうとする詠爾の願いは、ある意味で自分本位なものでもあり、しばしば自分の周囲に何があるのかを見落としてしまいがちでもある。現実はけっして自分の思いどおりになるわけではないし、また人生はゲームのようにリセットできるわけでもない。そして、だからこそまだ見ぬ父親のなかに過剰な期待を――自分が特別な存在である証拠を見出したいと願う彼の想いは、すでに破綻していることを心のどこかで見抜いているがゆえに虚しく、またいたたまれないものでもある。現実と虚構のはざまを彷徨うような本書のなかで、詠爾がおもいがけず知り合うことになった今城愛は、はたして詠爾のあらたな現実との接点として、彼の存在をつなぎとめることができるのか。そして、詠爾にとっての父親探しの旅は、どのような結末を迎えることになるのか。ぜひとも本書を手にとって、そのタイトルでもある『ナンバー9ドリーム』――9番目の夢が意味するものについて、考えをめぐらせてほしい。(2007.09.11)

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