【白水社】
『ノーホエア・マン』

アレクサンダル・ヘモン著/岩本正恵訳 



 現在勤めている会社において、いちおうシステム開発という部門に身を置いている私としては、コンピュータの世界における、ある個人が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であることを証明するための技術の推移というものに関心を寄せずにはいられない。もちろん、それは個人情報保護をはじめとする情報セキュリティへの世間一般の関心の高さゆえのものでもあるのだが、一昔まではせいぜいユーザー名とパスワード、あるいはカードとパスワードといった程度のものであった個人認証が、近年では指紋や静脈、あるいは網膜や声帯といった、個人の体の一部を用いた高度な個人認証へと変化していることが、個人認証に対する人々の認識にどのような影響をおよぼしているのかが気になっているからでもある。

 指紋による個人の識別は、刑事事件の分野においては以前から用いられてきたものである。最近はDNA鑑定というものもあり、こうした個人認証の精度は今後ますます高くなっていくと思われるが、体の一部によって人とは違うとコンピュータが判断してくれることと、ユーザー名とパスワードを設定することとのあいだには、おそらく埋めることのできない大きな溝が存在する。それは、指紋認証が犯罪の分野でまず発達したことを考えればよくわかることだ。ユーザー名やパスワードは、あくまで個人が設定し管理するものであるのに対し、指紋や静脈による認証は、個人でどうにかできるものではない、もって生まれ、受け容れていくしかないものである、という違いである。

 ユーザー名やパスワードといった個人認証は、言わば本人しか知りえない情報であることを前提としたセキュリティである。たとえば、私たちが自己紹介をするときに、名前や出身地、性別、年齢、生年月日といった、個人を特定する要素をひととおり並べるのが一般的であるが、こうした情報はより詳細にわたればわたるほど、個人を他の大勢の人間から差別化することができることになる。それが極まった形が、半生記や自分史――自分がこの世に生を受けてから今までの人生を書き綴るということになるのだが、どれだけ多くの要素を提示すれば、個人がまぎれもない個人であると認められるのだろうか、という問題を考えたとき、じつはその境目を定めることは不可能に近いという事実に気がつくことになる。

 コンピュータの世界においては、ユーザー名とパスワードという情報さえ手に入ってしまえば、誰もが自分以外の誰かになりすますことができる。同じように、もし誰かが自分の過去の記憶のいくばくかをなんらかの形で知りうることができる立場にあるとして、その情報を個人認識として用いられたとしたら、はたして私たちは、目の前の人物をまぎれもない個人として認識することができるのだろうか。

 前置きが長くなってしまったが、それは本書『ノーホエア・マン』という作品を読み終えて私が感じざるを得なかった、ある種の居心地の悪さ――それまでたしかだと思っていた事柄が、たしかなものでなくなったかのような不安定さの根底にあるのが、個人が個人であることの認識のかぎりない曖昧さにあることを説明するためのものであることを理解いただければと思う。本書は言ってみれば、ヨーゼフ・プローネクという青年のことを書いたものであるのだが、作中においてヨーゼフのことを語るのはヨーゼフ自身ではなく、また客体化された三人称でもなく、常にヨーゼフ以外の誰かであり、それゆえに物語のなかで、ヨーゼフという人物の心情についてはほとんど何も語られていない、という状況が発生する。つまり、そこにいるのは第三者から観察される立場にあるヨーゼフであり、あきらかに物語の中心人物でありながら、その主体が常に不在であるかのような印象を受けるのである。

 ヨーゼフ・プローネクにかんする情報は、数多く提示されている。ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォで生まれ、ビートルズに感化されて友人とともにバンドを結成したり、思春期に特有の甘酸っぱい恋を経験したりといった青春時代を過ごした彼は、1991年に若手ジャーナリストとしてアメリカに招待されるものの、翌年におこったユーゴスラヴィア紛争によって故郷に戻るに戻れない状態に置かれてしまう。それは、本書の著者の経歴と非常に類似したものであり、そういう意味では自伝的要素の大きい作品であるとも言えるのだが、問題なのはヨーゼフ・プローネクのことを語る一人称が何者なのか、という点である。たとえば、「イエスタデイ」と名づけられた章においては、ヨーゼフ・プローネクの生まれたときから経験してきた数々の出来事が書かれているが、その章の最後になって唐突に「私」という人称が登場し、読者を混乱させることになる。はたして、この「私」とヨーゼフ・プローネクとの関連性は何なのか、という疑問――しかも、その前の章においては、ヨーゼフ・プローネクと似たような経歴をもつ人物「私」の物語が展開されており、教師の職を求めて英語教室に来たときにヨーゼフの姿を見かける、という形で後の章とつながっていくのだが、この「私」が必ずしも後の章の「私」と同一人物でないとわかるためには、本書をかなり読み進めていく必要があるのだ。

 定まらない一人称、不連続な時間によって語られる、連作短編集のような構成において、ひとつ共通しているのはヨーゼフ・プローネクという人物だけであるのだが、それが彼を重層的に立ち上がらせるかといえばけっしてそんなことはなく、かえってその存在を不確かにしてしまっている。ヨーゼフに関する情報が詳細にわたればわたるほど、ますます彼という人物がわからなくなっていくという矛盾――それは、今はもう消滅してしまったユーゴスラヴィアという国の出身であり、それゆえにどこの国にいても異邦人としての自分を意識せずにはいられない、しかし長引く紛争によって故郷に戻ることも、あるいは紛争に身を投じるだけの思想的理念をいだくこともできない、きわめて不安定な立場にいる著者の心情を、このうえなく言い表していると言える。

 物語を語る「私」がけっして定まることがなく、それゆえに「私」が語るヨーゼフ・プローネクもまた定まることのないまま、しかしサラエヴォから届く友人の手紙には、人の死がきわめて身近なものであるというある種の悲惨な状況が書かれており、それは個人がまぎれもない個人でありつづけることを引き裂いてしまう結果となる。あるいは、こんなふうに言ってもいいのかもしれない。本書に登場する「私」とは、同時にヨーゼフ・プローネクでもありうる、きわめて流動的で、良くも悪くも変化の可能性をもつ「誰か」である、と。

 まぎれもない自分の経験というものが、しかし本当に自分だけのものであるか、という点において、過去の体験は必ずしも有能な要素とはなりえない。なぜなら、おそよ人間の体験する事柄である以上、そこには必ず自分以外の誰にも体験される可能性が残されるからである。だが、それは逆に自分の人生の一部を、たとえ一瞬であるかもしれないが、誰かが共有しているということでもある。そういう意味で、まぎれもない自分というものは、じつは自分ひとりだけでは成立させられないものなのかもしれない、とふと思うことがある。そして、本書はたしかに旧ユーゴスラヴィアの人間だった人物をとりあげた作品ではあるが、同時にその国をあくまで遠い外国としてしか認識できない多くの人たちに、彼らもまたたしかに血のかよった――感情をもち、傷つき、理不尽な死を前に途方に暮れるしかない弱さをもつ人間であることを声高に主張している作品だと言うことができる。(2006.06.04)

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