【早川書房】
『小説探偵GEDO』

桐生祐狩著 

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 本を読んで書評を書く、というサイトを運営している私は、当然のことながら本、とくに小説を読むのが好きなわけだが、ではなぜ小説を読むのか、という問いに答えるとなると、これがなかなか難しい。何かと理屈っぽい私などはそれだけでこの画面を埋め尽くすだけの言葉を費やしてしまいそうになるのだが、かといって、たとえば「呼吸をするのと同じようなもの」と断言し、そのために給料の大半をつぎ込んでしまうほど、読書という行為にのめりこんでいるわけでもないし、またそれだけの時間があるわけでもない。だが、かつてファミコンなどのゲームに夢中になり、そして某ゲームのノベライズから読書という趣味に傾倒していった経緯を考えるなら、私はきっと、小説のなかで展開していく、この現実世界とは異なった価値観をもつもうひとつの世界に接することが好きなのだろう。

 現実の世界では迷宮入りしてしまう難事件を見事に解決する探偵の活躍するミステリー、読む者の恐怖をかきたてるホラー、極度に発達した科学技術や魔法といった不思議な世界が展開するSFやファンタジー ――ある種の人間の理想の姿を描くハードボイルドやピカレスク小説、あるいは人間の欲望をストレートに映し出すアダルトやボーイズラブなども含め、小説というのは作家の価値観が強く反映された成果物であるが、それ以上によくできた小説内の世界には、私たちが生きるこの現実世界と負けずとも劣らぬリアリティがあり、その世界を生きる人々の息遣いが聞こえ、そして現実世界では見えにくい世の中の真実の姿を、さまざまな形で垣間見せてくれるものがある。

 たしかに小説はたんなる虚構の産物でしかないのかもしれない。だが、私たちが生身の人間である以上、この現実世界で経験できる事柄などたかが知れている。そのように考えたとき、小説を読むという行為は、その著者との対話であると同時に、私たちの知らないさまざまな世界に触れることであり、そのことによって得られるものは、実体験によるものと同様、私たちの人生に良かれ悪しかれ大きな影響をもたらすものでもあるとは言えないだろうか。

 読者(みなさん)は、読み終えた本の登場人物たちの「その後」を空想することが、きっとしばしばおありだろう。――(中略)――ひょっとして、ありもしない物語のために切歯扼腕する自分のことを、現実不適応者なんじゃないかと思ったりして。
 心配はご無用である。なぜなら、みなさんが薄々感じている通り、彼らはおおむね、異なった次元における実在者なのだから。

 本書『小説探偵GEDO』に登場する三神伸治、通称げどは、超零細広告事務所を営むしがない広告屋、という表の稼業とはべつに、探偵という裏の顔を持つ人物である。ただし、探偵とはいっても彼が活躍するのは現実の世界ではなく、もっぱら小説内の世界においてである。そう、げどは「小説探偵」――小説の登場人物をこの世界で見ることができたり、本の中の世界に入っていけたりする特異な能力を行使して、事件を解決していく探偵なのだ。

 全七話で構成されている本書は、一話ごとにげどがかかわることになる小説のタイトルが冠されている。殺人事件をあつかったミステリー、明治の日本を舞台にした耽美小説、人間の生首が襲ってくるホラーものや時代小説、剣と魔法がとびかい、ドラゴンや妖精が登場するファンタジー小説など、さまざまなジャンルの小説が出てくるが、どの話にも共通して言えるのは、あくまで人の手でつくられた虚構であるはずの小説内世界が、じつはきちんとした秩序によって保たれた世界、言い換えれば現実とは異なるもうひとつの世界として存在していることが前提となっている点である。そしてげどが関わることになる事件は、いずれも小説内世界と現実世界の境目を越えたときに起こる干渉が原因となっている。たとえば、小説内世界の登場人物が現実世界に実体化し、そこに住む人間を誘拐してしまったり、逆に現実世界の小説家が、自分の欲望を満たすために小説世界に入り込んでいったり、あるいは小説内世界の怪物を現実世界に呼び寄せ、人々を混乱させたり、といった干渉である。

 ふだん、現実世界にいるときは、わりとハードボイルドっぽい言動をとる、人生の酸いも甘いも噛みしめたやせ我慢好きな男である主人公のげどが、いざ小説内世界におもむくと、たちまちその世界に順応してしまい、時代小説のなかで妖刀をふりまわしたり、耽美小説で美形の警官に迫られたり、ファンタジー小説のなかで魔法を使ってみせたりと、なかなかにお茶目な姿を見せてくれたりする。そんなげどの活躍(?)ぶりが本書の特長であることは間違いないのだが、それ以上に重要なのは、げどの周囲にいる者たちが、揃いも揃って奇人・変人ばかりであり、完全に主人公の存在を食ってしまっている、という点であろう。スーパーのレジ係から宝石店のディスプレイ企画まで、およそできないことは何もない才能の持ち主である月影詩織、割腹自殺した作家に傾倒し、ちょっと右側に傾いた思考の持ち主である結社の親玉の角や、女であることに嫌悪するあまり、男としてその結社に入ってしまった耽美作家の妹尾みずほ、げどに対して腹に一物をかかえる正体不明の泉などなど、げどがその能力のわりに常識人であろうとするのに対し、彼らは常に社会倫理や法といったものから自由でいようとする性格をもっている。

 もとより、小説内の登場人物に現実世界の法が適用できるはずもないのだが、そんな自由人の極めつけともいうべき人物が、身寄りのない子どもたちを独自の掟と教育方針で育てている門倉念子の存在だろう。人間の心にある暗い一面をけっして否定せず、それゆえに既存の社会のうわべだけの幸福を否定して法の外で生き、その考えを行き場のない子どもたちにも教えこんでいく彼女独自の存在感はある意味、小説内世界から現実世界へと抜け出してきた者たちと同等のものがあると言える。そう考えたとき、本書は小説の内と外とを自由に行き来するファンタジーというよりも、むしろ社会の表では生きていけないアウトローたちによってつむぎ出される物語という側面を強くしていくのだ。そして、そんな人たちにとっては、あるいは小説内世界と、その外にある世界との境目など、あってないようなものであるのかもしれない、と本書を読み終えてつくづく考える。

 小説内世界へと自由に出入りできるというげどの能力――だが、話が進むにつれて、現実世界の住人も、小説内世界の住人も、げどと同じようにその境目を越えていく。それは、けっしてげどの専売特許というわけではないのだ。にもかかわらず、なおげどが本書の主人公でありつづけるとすれば、それは多くの非常識人のなかにあって唯一、社会的な、あたりまえの価値観をたもっていこうとする、まさにその性格に拠るのではないだろうか。(2004.12.14)

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