【リブリオ出版】
『十一月の扉』

高楼方子著 



 楽しいときには心から笑い、悲しいときには心から泣く――それは、感情を宿した人間であれば誰もがおこなう、ごく自然な態度に違いないはずなのに、年を経るにつれてそうした自然な行為が自然に出てこなくなっていると感じるのは、はたして私だけだろうか。

 人が大人になり、両親の庇護から離れて真正面から立ち向かわなければならなくなる現実社会は、多くのつらいことやくだらないことに満ちていて、そうした事柄にいちいち怒ったり、悲しんだり、悩んだりすることがあまりにも多いと、しまいにはそうした感情をあらわにすることにさえ疲れきってしまう。上から与えられる制度や秩序、さらには世間体や常識といった曖昧なものに対峙して自分を主張するのは、じつはとてもエネルギーのいることである。だが、自分の感情をひたすら押し殺してまで周囲と同調し、世間が人並みにあつかってくれることに慣れてしまうと、他人も自分もいつしかそれが普通なのだと思いこんでしまう。人生の経験を積む、ということが、世間の冷たい荒波にもまれ、多くの苦難をその身に受けつづけたあげく、自分がどんなときに泣けばいいのかすらわからなくなってしまうことであるなら、それはあまりにも悲しいことだと言わなければなるまい。

 旅にでかけるという行為は、日常から抜け出す行為でもある。一時的に自身を非日常空間に置くことで、人はそれまでの自分や、自分の周りにある環境を見つめなおし、それまでであればおそらく気がつかなかったであろう自身の別の一面を、あらためて認識できるようになることがある。あるいは、本来あるべき自分を解放させるものだからこそ、人は旅にあこがれるのかもしれない。本書『十一月の扉』で、中学生の爽子が「十一月荘」で体験することになる二ヶ月間は、たとえば向山貴彦の『童話物語』でペチカが体験するような、壮大な冒険の旅、というわけではないが、両親をはじめとする家族の干渉から自由になり、たったひとりでいる時間を持った、という意味では、まさに立派な旅を成し遂げた、と言えよう。

 白い柵をめぐらせた庭、生い茂るナナカマド、赤茶色の屋根を持つ、西洋風の二階家――偶然に爽子の目に飛び込んできたその家は、なぜか彼女の心を惹きつけずにはいられない魅力に満ちていた。突然決まってしまった引っ越しを機に、二学期が終わるまで今の学校に通いたい、という理由でその「十一月荘」への下宿を決意してしまった爽子の心を占めていたのは、まるで周囲から隔絶されているかのような「十一月荘」の、異世界的な雰囲気への憧れがあったのは、爽子が「すてきな」という言葉を何度も用いることからもわかる。

 自分の周囲にある、私たちが普段から慣れ親しんでいる日常の世界とはどこか違った、小さくてひそやかな別世界――『ポプラの秋』の「ポプラ荘」にしろ、『からくりからくさ』の祖母の家にしろ、日常の中にふと紛れ込んだ非日常というテーマは、私の大好きな物語のシチュエーションであるが、そうした別世界が魅力的に思えるのは、そこではどんな不思議なことが起こってもおかしくはない、というわくわくするような思いがあるのと同時に、そうした別世界に身を置けば、普段ならとてもできそうにないようなことであっても、成し遂げることができるのではないか、という期待感を高めてくれるものだからだろう。

 実際、「十一月荘」という別世界で、それまでできなかったすてきなことをしようと決意した爽子は、ドードー森の物語をノートに綴ることで、それまで存在しなかったものを自分の手でつくりあげていくことになるのだが、そうした別世界への憧れ、物語の創作といった「少女趣味」が、たんなる現実逃避に終わるのではなく、自分がこの現実に対してけっして無力ではない、どんなに小さな力であっても何かを変えていくことができるのだ、という強いメッセージをそえるために、著者は本書の「現実」と、爽子の生み出す「物語」とのシンクロ――ノートに書いた「物語」と同じようなことが「現実」でも起こり、また「現実」で起こった出来事が爽子の「物語」へとフィードバックしていく、というしかけを施すことになる。そして、そうした不思議な出来事を違和感なく取り込んでしまうのは、日常とは異なった世界である「十一月荘」だからこそなのだ。

 もともと気のあう仲間たちと共同生活ができるような老人ホームをつくろうと思ううちに、いつのまにか下宿屋のようなことを始めてしまった、「十一月荘」の管理人の閑さん、一度は結婚したものの、その生活にどうしてもなじむことができず、娘のるみ子とともに転がり込んできた馥子さん、集団行動が苦手で絵ばかり描いてきた、今は建築家としてはたらく苑子さん――この「十一月荘」の住人たちに共通して言えるのは、結婚してごく一般的な家庭の主婦となることが女の幸せなのだ、という男性優位社会の押しつけがましい常識を拒否した人たちである、ということだ。だが、彼女たちはそうした世間に立ち向かい、戦いを挑むのではなく、世間からはずれた生き方しかできない自分に悩みながらも、同じ屋根の下でお互いを尊重しつつ、自由で快適な生活をおくっている。

 その空間は、あるいは『タナトスの子供たち』で論じられているヤオイを愛する女性たちの世界のように、あるいは『東京スリーズ・ダウン』に描かれる日本のゲイたちの世界のように、閉じられた、逃避するための場所でしかないのかもしれない。だが、少なくとも爽子にとっての別世界であった「十一月荘」が、その住人たちの性質があってのものであることは言うまでもないが、同時に爽子の存在もまた、ことによると現状維持を決めこみがちな周囲の大人たちを影響させずにはいられない。閑さんが「伸びていくエネルギー」と呼んだ、子どもであるがゆえに持ち得るエネルギー ――それは、爽子にだけではなく、閑さんに英語を教えてもらっている耿介やるみ子にも与えられた、未来を変えるための力だ。

 十一月に起こることは、きっとすてきな、楽しいことに違いない――小さい頃にもらったというガラス玉のなかに封じ込められた『十一月の扉』、その向こう側に溢れている光を見て、閑さんがそう信じこむように、本書の扉を開いた読者は、きっとたくさんの「すてきな」ことに出会える旅のなかで、もう一度自分を見つめなおすことができるに違いない。(2001.11.20)

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