【早川書房】
『犬は勘定に入れません』

コニー・ウィリス著/大森望訳 



 たとえば、私たちが今、ここにいる現在を基準として、そこから先の時間については、私たちにとってはまだ確定していない未来に属しており、そこにはさまざまな可能性が存在している、と考えるのがふつうである。これから先何が起こるのかは、現在を生きる私たちの誰にもわからないし、また何が起こっても不思議ではない。それは逆にいえば、現在の私たちの行動いかんによって、未来はどのようにも決定づけられる、ということでもある。反対に、現在から以前の時間については、私たちにとってはすでに確定してしまった過去に属するものであり、私たちはそこで起きたことを歴史的事実として知ってはいるが、誰もその事実を変更することはできない。だが、私たちはその過去を分析し、歴史的事実が歴史的事実として確定する要因が何だったのかを検証したり、いろいろな憶測をめぐらせたりすることはできるのである。

 ところで、この「過去」「現在」「未来」という時間の概念は相対的なものだ。たしかに私たちにとって未来のことは未知数であるが、たとえばここから100年先の未来を「現在」として生きている人たちにとっては、私たちの現在もまた「過去」の一部であり、すでに確定された歴史的事実として認識されているはずである。ということは、考えようによっては私たちの未来は――いや、過去から連綿とつづく時間の流れは、そのすべてが定められたものであり、私たちがどのような自由意志をもち、どのような行動をとったとしても、けっきょくは時間そのものが描く運命的作用からは逃れられない、ということになる。

 物語のテーマとしてしばしば登場するタイムトラベル、とくに過去への時間跳躍によって引き起こされるタイムパラドックスの問題は、しばしば人間個人の意思の強さと、そういったものを超越する運命的作用の強さとの対立の問題へと帰結していく。はたして、人間は歴史を変えることができるものなのか、それとも、あくまで超越的意思の操り人形であることからは逃れられない運命なのか? その答えはとりあえず置いておくとして、今回紹介する本書『犬は勘定に入れません』は、基本的にタイムトラベルを扱ったSFであり、ミステリであり、また恋愛小説ともユーモア小説ともとることのできる作品であるが、本書を読み終えてまず驚くのは、多くの人間たちや、その人間たちが作り出したさまざまな事物や、気候や体調といった環境、あるいは猫や魚といった(もちろん犬は勘定に入れるまでもなく)動物たちすべてが、いわばピースのひとかけらとなり、それぞれの役目をはたすことでほんの少しだけ垣間見えてくる、「歴史の流れすべてと、時間と空間のすべてを包括する」あまりにも壮大な「グランドデザイン」の存在であろう。

 とはいうものの、本書にはあちこちに笑いの要素がちりばめられた、ユーモア小説として読めることも事実である。本書の語り手たるネッド・ヘンリーは、物語をとおしていつも当人の意志とは無関係に物事が決定され、否応なく次々とやっかいな事態に巻き込まれていくという、なんとも損で、ある意味不幸な人生を余儀なくされている青年だ。そしてSFにはよくあるように、物語の出だしは常に唐突である。時は1940年、第二次世界大戦中のロンドン大空襲で焼け落ちたしたばかりコヴェントリー大聖堂の瓦礫をさらっている、ネッドをふくめた数人の男たち――彼らがじつはその時代の人間ではなく、21世紀半ばのオックスフォード大学の史学部生であり、ネット理論によって確立したタイムマシン装置によって送り込まれたということがわかるのは、もう少し後のことであるが、その偉大な発明であるはずのタイムマシン装置が、コヴェントリー大聖堂の再建プロジェクトの貫徹に意欲を燃やすスポンサー、レイディ・シュラプネルによって、なかば独占的に使われているばかりか、多くの大学生が彼女の手足となって、何度も20世紀に送り込まれている、という状況がまず笑える。

 もっとも、ここで登場するタイムマシンは、けっして時間を自由に行き来することのできる、夢の機械というわけではない。ネット理論によってタイムパラドックスが引き起こされる可能性をできるかぎり排除するように作られたタイムマシンには、さまざまな制約がかけられている。たとえば、未来へ「降下」することはできない。過去へ行くにしても、一度「降下」した時間軸に、ふたたび同じ人間が「降下」することはできない。また、歴史的転換期だと判断される時代に行こうとすると、必ず時間的なズレが生じる。さらに、ここが重要なのだが、「降下」した時代の物は――微粒子や空気といったごく小さなものを除いて――けっして未来に持ち帰ることができない。それゆえに、この偉大な発明は現在、一部の歴史学者と科学者が使うのみで、世間では見向きもされていないというのが現状なのだ。

 物語は、猛女レイディ・シュラプネルに「主教の鳥株」という花瓶を探すよう厳命されたネッドが、度重なるタイムトラベルで疲労困憊となっているのを見かねたダンワージー教授の計らいによって、ごく簡単な任務とともに19世紀のヴィクトリア朝時代へと派遣されたものの、重度のタイムラグ症状でぼんやりしていたため、かんじんの任務の内容を聞き逃してしまうという展開を見せる。なにもかもが優雅で、ゆったりとした時間が流れていたヴィクトリア朝――だが、ネッドのまわりに集まってくるのは、やたら古典の詩や小説の文章を引用まくる陽気な学生や、魚のことになると周囲が見えなくなる変人教授、わがまま放題でフリル好きな貴族の娘や、心霊現象に入れ込んでいるその母親、インチキ霊媒師や金魚コレクターの大佐やその魚を狙う飼い猫など、ひとくせもふたくせもある者たちばかり。ボートに乗れば、荷物の積み込みに難渋したあげく、最後にはボートそのものが転覆してしまうし、ようやく安眠をむさぼることができるかと思ったら、1930年代の歴史を専攻しているために英国ミステリマニアと化した女性ヴェリディの邪魔が入ったりと、なかなか安息の時は訪れてこない。それどころか、そのヴェリティが犯したある事件や、ネッドの「降下」が原因で、どうやら歴史の齟齬が徐々に大きくなってきているらしい。

 はたしてネッドたちは、歴史の齟齬をただすことができるのか。またコヴェントリー大聖堂にあったはずの「主教の鳥株」を見つけることができるのか。そもそも、歴史の齟齬を回避するはずのタイムマシン装置が、なぜ今回にかぎってうまく機能しなかったのか。そしてなによりも、ネッドの安息の日はいつ訪れるのか? ポアロやホームズといった英国ミステリのネタを満載し、過去と現代をせわしなく行ったり来たりしながら、なんとか19世紀人に歴史どおりに動いてもらおうと四苦八苦するというドタバタを演じつつ、しかし最後にはすべてのつじつまがきちんと解消され、謎がきれいに解決していくさまは、まさに上等のミステリと言えなくもないのだが、なにより本書が秀逸なのは、ただのミステリではなくタイムトラベル、しかも時間の齟齬とその修復という、よりマクロな視点を取り入れたミステリを展開している、という点であろう。しかも、ネッドはけっして英国ミステリの探偵のように、何もかもお見通しというわけではなく、むしろ彼の行動がかえって歴史の修正を邪魔していくという悪循環を引き起こしていくのだが、物語が進むにつれてますます増大していく混乱を、いったいどのような形でまとめていくのか、そしてネッドが最終的にどのような役目をはたすことになるのか、という点も、本書の読みどころのひとつである。

 フェルディナンド大公の運転手がフランツ・ヨゼフ通りに入る曲がり角をまちがえたことが世界大戦のきっかけになった。エイブラハム・リンカーンのボディーガードは煙草を吸いに外へ出たばかりに平和を崩壊させた。偏頭痛に悩まされていたヒトラーは邪魔をするなと命令し、そのおかげでDデイ侵攻について知るのが十八時間遅れになった。

 歴史の大きな分岐点となるきっかけは、じつにささいな事柄によって引き起こされることがある。もしすべての時間と空間を包括する「グランドデザイン」なるものが存在するのであれば、たしかに私たちの行動や思考のすべては運命的なものなのだろう。だが、そんな運命論など関係なく、私たちはたしかに「現在」という時間を懸命に生きている。多くの古典へのオマージュとユーモアに満ちたドタバタSFミステリーの陰に、そうした人間のしたたかさ、力強さ、そしてその可能性の大きさもまた、感じられる作品でもある。(2004.08.29)

追記:本書のタイトルである『犬は勘定に入れません』は、むろんジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』のサブタイトルからとってきたものであり、そういう意味では『ボートの三人男』にオマージュをささげているとも言えるのだが、「勘定に入れない」という表現に注目したとき、本書で起きた一連の事件のなかで、ブルドックのシリルのみが、唯一「グランドデザイン」の影響外にあるような話のつくりになっている、ということに気がつく読者もいるかと思う。だが、当然のことながら「グランドデザイン」という壮大な絵巻物が、シリルだけを「勘定」に入れていなかったとは考えにくい。そういう部分まで計算に入れたうえで、なおかつ本書のタイトルをメインに添えたのだとするなら、この著者は相当な切れ者だと言わざるを得ないだろう。(2004.09.09)

ホームへ