【白水社】
『豚の死なない日』

ロバート・ニュートン・ペック著/金原瑞人訳 



 今の世のなかが生き難い、みたいな話を耳にする。未来に対する明るい展望が開けず、何をしても今より世のなかが良くなることなどありえないのではないか、という閉塞感に満ちた今の状況は、たしかにかつての私たちが21世紀という未来に思い描いていた希望や理想とは異なるものであるのだが、そもそも生きるということは、本来的にもっと単純なことであるはずだ。私たちは人間である以前に哺乳類であり、動物であり、生き物でもある。生き物とは、生きているもの、つまりは死んでいない状態にあるもの全般を指すものであり、私たちの生物学的な肉体は、生を受けた以上、その命を全うすべく活動しつづけるようにできているはずである。

 私たち人類は言葉を発明し、未来を見据える概念を身につけた。これはたとえば、今手持ちの食料がどれくらいあり、現状のペースで消費していけば何日で底を尽きるかを予測することができるということであり、私たちはそれゆえにその未来を見据えて行動を先んじることができる。こうした概念は、厳しい自然のなかで生きるうえで大いに有利な能力として機能したであろうし、だからこそ人類は今の立場にいるということでもあるのだが、そうして「生きる」ということの安全性がある程度確保されてしまったことで、逆に私たちは、ただたんに生きるというだけでは個としての価値を見出しにくい環境で生きることを強いられているのかもしれない、とふと考えることがある。

 今回紹介する本書『豚の死なない日』は、そのタイトルからして象徴的である。アメリカのヴァーモント州にある片田舎の農家の少年ロバートの青春と成長を描いた物語と言うべき本書であるが、彼らは純粋な農家というわけではなく、父親であるヘイヴンは町で豚を屠殺する仕事にも就いている。本書の冒頭において、着ている服を馬鹿にされたロバートが授業を抜け出してしまうというシーンや、一家の農地がいまだ借地である事実などから、彼らの生活がけっして裕福なわけではなく、むしろ貧しい境遇に甘んじていること、金銭をふくめて彼らのものとして所有しているものが限りなく少ない生活をしていることがうかがえる。

 生活のために必要なこととはいえ、屠殺というのは誰もが好きこのんで就くような仕事ではない。毎日欠かさずに食肉のための豚を殺している父親像――本書はあくまでロバートの一人称によって展開していく物語であるが、そんな彼が冒頭でいきなりはぐれた乳牛のお産に出くわしたあげく、なにはともあれその出産を手助けしようと行動したり、その牛の喉にできた甲状腺腫を素手でとろうとして大怪我したりといった、生々しいまでの生の体験に対して臆したり躊躇ったりすることなく、さもそれがあたり前であるかのように対処しようとする態度は、彼らの生活がそのまま自分たち家族の生き残りのためのものであるということであり、その中心にあるものとしてロバートが認識しているのが、他ならぬ父親――生きるために動物を殺すことを、そのもっとも生々しい現場に立って実践している父親なのだ。

 けっして美しいだけでない大地のおきてに根ざした、厳しく素朴な農家の生き方――そんな自然のなかで生きるロバートの視点がとらえる四季折々の自然の美しさや、自然を利用した数々の遊びなど、どこか懐かしさを感じさせる描写が秀逸な本書であるが、その根っこには常に、そうした自然のなかで育まれ、あるいは失われていく命の脈動がある。他家の乳牛の難産を手助けしたお礼として、一匹の子豚をもらいうけたロバートは、その子豚に「ピンキー」と名前をつけて可愛がることになるのだが、その視点にはたんなる愛玩動物としてだけではなく、ピンキーが大きくなり、多くの子豚を産んでくれること、さらにはその良種の子豚を売ったお金によって家計が潤ってくれることを期待する視点が、ごく自然な思考として含まれていることに、私たちはすぐに気づく。

 本書には登場人物の内面や心の声といったものは、明確な表現で書かれてはいない。だが、少なくともロバートという少年は、自分たちの家族が貧しい生活をしていることは意識しているし、その貧しさを彼なりになんとかしたいという思いをもっていることも、本書を読み進めていくと自然にわかるようになっている。清貧な暮らしを旨とするシェーカー教徒であり、必要以上の富を「フリル」として遠ざけるという教えのせいもあるのだが、少年の目は、本当は必要だけど手に入れられない――お金がなくて買えないという事実をごまかすための方便として「シェーカーの書」の教えが使われていることもきちんと見抜いている。なにより、文字の読み書きができない父親は、ロバートが学校で勉学に励むことを望んでいる。少なくとも、自分の名前を自分で書けるくらいの教養を身につけてほしいと思っている。そしてそれは、自分のような汚れた仕事を息子にしてほしくはない、将来就くべき仕事において、多くの可能性を残しておきたいという愛情ゆえのことでもある。

「ぼくはタナーさんのようになりたいとは思わないよ。父さんみたいになりたいんだ」
――(中略)――
「まさか。なるわけがない。おまえは教育を受けている。読み書きや計算ができるようになるし、果樹園の害虫よけに新しいものを使うようになるだろう」

 本書のなかに具体的な描写はないが、おそらくこのロバートという少年は、学校における友人関係について、あまり良い関係を築けていないところがある。少なくとも本書のなかに、学校の友人と遊ぶといったシーンは出てこない。このあたりが一般的な青春小説とは異なる特長のひとつであるが、そこには貧しさゆえに家の手伝いを優先させなければならないという事情が見え隠れする。そしてロバート自身、貧困な生活そのものに不満はあるものの、だからといって豚の屠殺のような仕事までしなければならない父親を軽蔑するのではなく、むしろその生き方が、言葉にはできないがけっして間違ったものではないことを、心のどこかで感じているところがある。

 ロバートたちの家庭のなかで、豚のピンキーはけっしてペットではない。そのあたりのところはロバート自身もわかってはいるのだが、いざそのことを明確にしなければならないときに、はたして彼が何を思い、どんな決断をすることになるのか――少年であるがゆえに許されるどっちつかずのモラトリアムから早急に脱しなければならない厳しい現実を描いた本書には、人間として生きることの単純さと複雑さといったものが溢れている。そしてそれは、あるいは今という時代だからこそあらためて見つめなおすべきものなのかもしれない。(2013.01.31)

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