【角川書店】
『キップをなくして』

池澤夏樹著 



 私の実家は北陸地方のひなびた温泉街で、そもそも電車に乗るという機会がほとんどなかった。どこへ行くにも父の運転する車か路線バス、あるいは自転車がおもな移動手段だった私が、日常的に電車に乗るということを憶えたのは、離れた市にある高校に通うことになってからのことだが、そのときも私にとっての電車とは、あくまで移動手段のひとつであり、その以上の意味をもつようなことはなかったように思う。電車は電車であり、駅は電車が止まって乗客が乗り降りする場所。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 そうした私の認識が大きく変わったのは、大学進学のために上京し、まるでどこかのデパートかと見紛うばかりの広大な駅の構内や、山手線のように同じ線路をぐるぐると回っているという電車の存在を知ってからのことだ。そもそも三分に一本の割合で電車がやってくる、という事実それ自体が驚異だったし、トイレはもちろんのこと、レストランや売店、喫茶店、本屋、場所によっては理髪店や衣服屋まで入っている駅というのは、それだけでひとつの町だと言っても過言ではなかった。ここなら何の不自由もなく人が暮らしていけるのではないか、となかば本気でそのときは思ったものだし、今もその思いはあまり変わってはいない。じっさい、暑い夏の休日など、どこか涼しい場所で存分に読書をしたいと思ったとき、私は今でもときどき電車と駅を利用したりする。電車の中は冷房が利いていて涼しいし、図書館のように居眠りをしてもとがめられるようなこともない。空腹になれば駅構内の食堂を利用すればいいし、トイレについても問題ないわけだから、その気になれば日がな一日電車と駅の中で過ごすことも、東京などの大都市の駅であれば不可能なことではないのだ。

「さっき、有楽町でわたしが言ったでしょ。キップをなくしたら駅から出られない、って。キミはこれからわたしたちと一緒に駅で暮らすのよ、ずっと」

 本書『キップをなくして』に登場する小学生、遠山至は銀座三原橋にある山村切手店に向かうために山手線に乗りこんだのだが、いざ降りようとしたときに、買ったはずの切符をなくしてしまっていることに気がつく。そんな少年のもとに訪れたフタバコと名乗る少女は、切符をなくして途方に暮れている彼を東京駅のとある詰め所に案内するが、てっきり切符をなんとかしてくれると思っていた少年を待ち受けていたのは、ステーション・キッズ、「駅の子」として駅の構内で生活しなければならない、というなんとも不条理な運命だった……。

 まずは野暮なことを言ってしまうのを許してほしいのだが、現実においてたかだか切符一枚をなくしてしまったくらいで、駅から出ることができなくなるようなことはない。じっさい、本書のなかにおいても、志願して「駅の子」になったフクシマケンが指摘するように、駅の清算所に行って、もう一度切符を買いなおせば済むだけの話なのだ。だが、それ以上に注目すべきなのは、駅から一歩も外に出ることなく生活していく、という着眼点である。その可能性だけを考えるのであれば、駅のなかで暮らす――とくに、本書の舞台となる山の手線内の駅で暮らすというのは、たとえば東京駅や新宿駅といった広大な駅に慣れ親しんでいる人であれば、誰もが一度は夢想せずにはいられない、ちょっと魅力的な可能性なのだ。

 つまり、一部の鉄道関係者を除いて、大都市の駅というのは、ふだん私たちがよく利用しているにもかかわらず、意外にもよく知らないところも多い場所である。そういう意味において、本書はある少年少女が現実世界から、それまでまったく知らなかった異世界へと思いがけず訪れることになる、というファンタジーとしての要素をたしかにもっていると言える。ただ、本書が他のファンタジーと決定的に異なっているのは、異世界へと旅立つきっかけが、たとえばどこかの扉を開けるとか、異世界からやってきた何者かに連れられて、といったものではなく、ただ単に「キップをなくす」という行為から発生していることである。キップをなくすなんて行為は、それこそ日常的に起こっていることだ。そして日常的であるからこそ、本書で展開される出来事は私たちにとって容易に想像できる、いかにも身近な出来事として受け入れられ、私たちを簡単に物語の世界に連れていってしまうだけの力をもつのである。

「駅の子」になった子どもたちは、駅構内の商品についてはみんな無料で手に入れることができるようになる。彼らの拠点となる詰め所には、駅員が仮眠をとったりシャワーを浴びたりする場所があり、「駅の子」たちもそこを自由に使えるようになるし、期限切れになった紛失物についても、必要であれば自分のものにできる。そればかりか、「駅の子」たちはそこにいても、まるで空気のように気にかけられなくなる存在となり、その気になれば時間さえも止められる力をもつようになる。遠山至はそこではただのイタルとなり、他のひとクセありそうな仲間たちと、通学に電車を利用している小学生たちを通勤ラッシュから護るという仕事をこなすようになる。

「私たちが見てはいるけど、なんでも自分たちでしなければならない。お金はいらないし、大人は邪魔もしないが、よほどでなければ手も貸さない。駅の子はね、そうやって賢くなるんだよ」

 本書はたしかにファンタジーの要素をもっているし、じっさいに魔法のようなことが起こったりもする。だが、ファンタジーというにはあまりにも現実世界に近い場所にあり、それゆえに読者の想像を容易にする半面、読者がもつ現実世界の常識が、物語世界を楽しむ邪魔をしてしまう欠点ともなりえる。なぜ「駅の子」などというものがあるのか。本当に駅から外に出られないのか。両親はなぜ子どもたちを心配しないのか。なぜしばしば他の人から見えなくなるのか。ミンちゃんだけが会ったという「駅長」とはどんな人なのか? 私たちは本書を読み進めていくにつれて、いろいろな疑問を抱えていくことになるのが、じつはその疑問は、そのまま本書に登場する「駅の子」たちの疑問でもある。そしてその事実を考えたとき、読者は「駅の子」として暮らすことの意義、しいてはファンタジーにおける異世界の意義について思いをはせることになる。

 ファンタジーにおける異世界とは、日常の対極にあるものだ。そして日常から異世界へとやってきた者は、意識するしないに関係なく、これまでとまったく違った世界に適応し、これまでとは違ったものの見方を覚え、これまでと違った角度から物事を考えざるをえなくなる。その端的な例は、何かに疑問をもつという形で起こる。それまでであれば考えることすらなかった事柄に対して、あらためて疑問の目を向ける――つまりそれが本書の、そしてファンタジーの本質ではなかったか、ということである。そういう意味では、本書はまぎれもなくその本質をつかんでいるし、その本質をそのまま読者に追体験させることにも成功しているのだ。

 『郊外へ』などの著者でもある堀江敏幸は、よく境界線について書くことの多い人でもあるが、とあるエッセイのなかで、空港や駅といった特殊な場所についても書いていたことがある。人々は飛行機や電車に乗って遠くまで移動するが、にもかかわらず、空港や駅から外に出ることがなければ、その先にある目的地にはたどりつくことがない。電車のなかや駅という空間は、あくまで通過する場所であって、そこ自体が目的地ではない。本書に登場する「駅の子」たちは電車乗り放題ではあるが、駅から外に出られない以上、そこからどこにもたどり着くことができない状態にあると言える。そんな境界線にまぎれこんでしまった「駅の子」たちが、いったいどのような経験をすることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2006.05.13)

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