【平凡社】
『不美人論』

陶智子著 



 以前、とあるサイトの企画で「美少女」が登場する小説を3作選んで紹介する、ということをしたことがある。そのとき私が選んだのは、池上永一の『バガージマヌパナス』、吉本ばななの『TUGUMI(つぐみ)』、そして酒見賢一の『後宮小説』の3作だったのだが、不思議なことに、『バガージマヌパナス』の仲宗根綾乃にしろ、『TUGUMI』のつぐみにしろ、『後宮小説』の銀河にしろ、ただ単に美人だから印象に残っていたわけではなく、むしろそれ以外の部分、たとえば自堕落な島人気質や、恐ろしく性悪な根性曲がりの部分や、ひたすら元気いっぱいの快活さといった、およそ顔形の美しさとは関係のない部分に強烈な個性が輝いていたからこそ、私は彼女たちに魅力を感じ、今もなお忘れられない登場人物として記憶していたのである。

 そう、ここで私が紹介した作品は、厳密な意味で「美少女」が登場する小説ではなく、「破天荒な個性をもつ女の子」が登場する小説だったのだ。これは、こうして作品を挙げてみてはじめて気がついたことなのだが、美人であることと、個性的であることとは、本来別の要素であるはずなのに、なぜか私は彼女たちを「美少女」であると判断した、ということになる。そして、私のこの判断は、当然のことながら世の中のすべての人たちにあてはまる、というわけでもないのだ。そう考えたとき、美人の定義というものが、世の中でどの程度確立しているのか、「美人」という言葉にどれだけの普遍性があるのか、という疑問が生じるのは、避けられない事態であると言えるだろう。

 さて、本書『不美人論』である。論というよりも、著者自身の体験談も含めた、古今東西の美人・不美人に関するよもやま話をきわめて軽くつづったエッセイのような感のある本書であるが、その論点は非常にはっきりとしている。それは、「美人」の定義ほど曖昧模糊として、とらえどころのないものはない、という点である。

 著者の陶智子は、自身が「不美人」であることを目指していると豪語するだけあって、美人ではない、らしい。じっさいにそのお顔を拝見したことがないので、どれだけ「不美人」なのかは確かめようもないのだが、少なくとも美人ではない、ということを示すエピソードには事欠かないようだ。いわく「すごく大きな八重歯」であるとか、広いおでことか、そんなおでこよりも低い鼻であるとかetc。だが、そんな著者であっても、たとえば着物を着るだけで「楚々とした」「しとやかな」といったプラスの付加価値がつくのだ、と述べる。著者自身の顔形はまったく変わっていないにもかかわらず、そうしたプラスイメージがついてしまうという事実は、よくよく考えれば不思議なことではある。

 世の中の女性は、だれもが美人になりたいと考えている。いや、女性だけでなく男性だって、醜い顔であるよりは美男子であるほうがいいと考えている。だが、いざ「美人」とはどういうものなのか、ということに目を向けたときに、自分なりの美人像を思い描くことができる人が、いったいどれだけいるのだろうか。

 あらゆる年齢層へ向けての綺麗作成マニュアル本、国内外からどっと押し寄せるコスメグッズ、より自由に楽しむファッション……。とにかくいろいろ考えてみると、現代は美しくある方が余程たやすいのではなかろうか。

 誰も彼もが美人であり、また美人になることを推奨する、一億総美人化ともいうべき時代――たとえ顔形の造形が美人とはかけ離れていても、人格部分やトータルバランスや日々の生活態度で美人かそうでないかを判断したり、究極的には「自分が美人だと判断すれば、それは美人なのだ」という強引な解釈がまかり通ったりする現代において、あえて自分を俎上に乗せてまで「不美人論」を展開しなければならなかった著者が見据えていたものは何なのか? 誰もが美人、けっこうな時代じゃないかと思う方もいるかと思うが、問題なのは、その「美人」というものの定義が非常に曖昧で、であるがゆえにその解釈が恐ろしいほど拡散してしまっている、という状況なのである。

 何が美人であるかを知るためには、何が美人じゃないのかを知る必要がある。プロのメイクアップアーティストが、まず対象となる顔の欠点を見つけ、その欠点を改善することを目指すのと同じように、美人になるためには、まず自分の顔のどこが「不美人」なのかを見極める必要がある。そのうえで「美人」になることを目指すのであれば問題はない。だが、はっきりとは書かれていないものの、著者がもっとも危惧しているのは、自分の肉体にある特徴的な部分にまったく目を向けないまま、ただ安易に美人になろうとしている人が多いのではないか、ということなのである。そしてそんな安易な美人化は、それぞれが当然もっているはずの個性が希薄になってしまう、ということと結びついてしまうのだ。

 その辺を歩いていると、みんなが揃って美人であることに気がついて驚いてしまうことが多々ある。みんなつるっと美人である。何も心に引っ掛かるところのない美人だ。「さらっと美人」と呼んでもよかろう。

 そう、ここまで読んでくればわかると思うが、著者が主張する「不美人」とは、けっして醜い人間である、という意味ではなく、現代の、おそろしくその存在が希薄になってしまった「美人」を目指さない人、他人とは異なる身体的特徴をひとつの個性として引き立てていくことを目指す人、という意味なのだ。そして、著者が述べる「美人」と「不美人」の、どちらがより印象深いものであるかは、上に挙げた小説の女の子たちのことを考えれば、もはや言うまでもないことだろう。

 世の中の誰もが美人になることを目指しているなか、あえて「不美人」になることを主張した本書は、あるいは没個性化を突き進む今の世の中に一石を投じる名著であるのかもしれない。(2003.12.18)

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