【講談社】
『私のいない高校』

青木淳悟著 



 インターネットの発達と、それにともなう各種コミュニケーションツールの普及によって、ごくふつうの人たちによる情報発信が手軽に行なえるような環境が整ってきて久しい。そして、そうした恣意の人たちの情報は、あるいは既存のメディアがあえて報道しなかったような事柄に触れていたりすることがあり、メディアの媒介物によってしか情報を得ることのできなかったそれまでの時代とくらべれば、私たちはより多くの選択肢をもつという意味で、恵まれた環境にあると言ってもいい。

 しかし同時に、ネット上に誰もが情報をアップするようになることで、その情報量が爆発的に増えてきたことも事実であり、それはまた別の問題を生み出すことになった。つまりあまりに多くの情報が氾濫しすぎて、それに接する私たちがその真偽をいちいち確かめることができなくなってきている、という問題である。もちろんこうした問題は、ネットが普及する前のメディアにも言えることではあるのだが、より深刻なのは、ともすると情報の精度よりは、より人目を惹く、より過激な表現をもちいた情報ばかりに人々が安易に引き寄せられかねない、ということだ。そして皮肉なことに、そうした手法はそれこそ週刊誌をはじめとする既存メディアの十八番であり、ネットであること、双方向に情報をやりとりすることのメリットを自分から殺してしまっている。

 ネット上に過激な内容の記事ばかりが氾濫しているように見えるのは、それらがとくに目立つというだけのことにすぎない。だが、それでも人は地味な記事よりは、派手な記事を好んでしまうものだ。そんな今の時代を考えたときに、今回紹介する本書『私のいない高校』の存在意義が出てくる。

 本書の内容をごく簡単に説明するなら、ある高校教師の教務日誌、という言葉がふさわしい。神奈川県にある学校法人国際ローゼン学園で古典を担当する彼が、カナダからの留学生であるナタリー・サンバートンの担当を引き受けてからの、おもに学校内での活動の様子や、留学生に対する授業のありかたなどの報告や所管を日誌形式で書き記したもの、それが本書のすべてを言い表われしている。日付は一九九九年三月からだいたい半年くらいまで。それも、とくに前半の三ヶ月については詳細にわたって取り上げており、そこには五月におこなわれた修学旅行の様子などもふくまれている。

 日本も国際化の波を受け、学校に外国人の生徒が通うといったことも珍しいことではなくなり、また小説などでもそうした外国出身の生徒が登場人物としてふつうに出てきたりもするが、じっさいにある学校が、外国の留学生を長期にわたって受け入れることになったときに、どのような問題や課題が発生しうるのか、そしてそれに対して学校側がどのような対応をしていくのかをきちんと検証しているものは、おそらく本書が初である。そしてじっさいに本書を読んでいくと、そこにはじつにいろいろな問題が山積しており、それこそ留学生を受け入れるホストファミリーの問題から、授業スタイルや参加行事について、テストの仕方や部活動といったところにまで及ぶ。

 担任教師の高校では、そうした留学生の受け入れについては経験にとぼしいところがあるようで、何をするにしても手探り状態であることが見て取れる。それに加えて、学園では四月から共学化がはじまり、初の男子生徒を受け入れたり、校長が外国人になったりと、大きな変化のある年でもある。そのなかでも、ナタリーの担任教師となった藤村雄幸の教務日誌を中心とする本書の内容が、彼女に関する事柄で占められてしまうのはごく自然な流れでもある。そして、本書のひとつの特長としてあげられるのが、教務日誌を書いた担任教師の、ナタリーをはじめとする受け持ちの生徒に対する距離感である。

 上述したように、担任教師の置かれていた当時の状況は、けっして容易なものではない。彼自身が望んでナタリーの担当を引き受けたとはいえ、何もかもがはじめての事柄の連続であり、その負担の大きさもストレスも相当なものであろうと想像できるのだが、少なくとも本書を読むかぎりにおいて、そうした生々しさというか、ある種の感情的な雰囲気は皆無に近い。物語の展開という意味でも、とくに大きな事件が起こるわけでもなく、ごくふつうの高校生活、その日常が淡々と記録されている、という印象がある。そして、本書があくまで教務日誌をメインに置いている以上、その印象はしごく正しいものなのだ。

 まるで、女子生徒の観察日記であるかのような本書が、ひとつの物語として面白いかと言われれば、けっしてイエスとは言いがたいものがある。だが、たとえば磯田道史の『武士の家計簿』のように、江戸時代の家計簿ひとつをとってみても、そこから多くの事実があきらかになり、またそこにいくつものドラマがあることが見えてくる。ひとりのカナダ人留学生――じっさいにはブラジル生まれのカナダ人であり、ポルトガル語を母語とする留学生であることが判明して、学校関係者がおおいにあわてるという場面がある――が、ごくふつうに日本での高校生活をおくるその裏で、担任教師をはじめとする多くの人々が、その「ふつうの高校生活」のために尽力しているという図式が、本書から垣間見えてくる。そこにはある意味で、読み手の想像力が試されていると言ってもいい。

 さて、本書がある担任教師の教務日誌であることは上述のとおりであるが、じつは単純に教務日誌の内容を載せているというだけでないことは、本書を読み進めていくと自然とわかってくることではある。もちろん、ベースに教務日誌があるのはたしかだが、その教務日誌を読み返している担任教師の視点が、ところどころに入り込んでおり、その教師の記憶を再現しつつ、教務日誌の内容を追体験しているというのが実状である。つまり、本書の時系列的には、すでに留学生のナタリーはその留学期間を終えて、カナダに帰国しているのだ。そんなふうに考えると、本書のタイトルである「私のいない高校」の「私」とは、ナタリー自身であることが推測される。今では、教務日誌という形のなかでしか存在しえない留学生――その面影に、そして彼女が体験した日本の高校生活に、はたして読者はどのような感想をもつことになるのだろうか。(2014.12.28)

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