【白水社】
『ほとんど記憶のない女』

リディア・デイヴィス著/岸本佐知子訳 



 たとえば、私がある本を読んでいたく感銘を受けたとする。私はこのときの感動を忘れないように感想を書こうとするのだが、そうやって書かれたものが、本当にそのときの感動を言い表しているのかどうか、にわかに不安になってくることがある。何かを言葉にしたときに、その対象の肝心要の「何か」がもしかしたら零れ落ちてしまっているのではないか、という思いは、しかしそれを書いたのが当の本人である以上、たしかにそこに含まれていると信じざるを得ない。だがそうすると、何かを言葉で言い表すというのは、けっきょくは信用問題なのかということになり、そのとたん、そこに書かれたものはたしかな土台を失って、このうえなく曖昧なものと化してしまうことになる。人によっては、そのときの感動を感じとる人がいるかもしれないが、別の人はそうした感動をまったく読み取れないかもしれない。それは、書かれた言葉の問題なのかもしれないし、あるいはそれを読み取る相手の問題なのかもしれない。さらに、そのときの感動を完璧に表現することができたとしても、じっさいにその人がその本を読んで、同じように感動してくれるかどうかはわからないし、もしそうなったときに、読んだ人は自分が読んだこの本は、私が感動した本と同じものなのだろうかという疑問を生じさせることになるかもしれない。そしてそれが積み重なっていけば、いつしか私がそのとき読んで感動した本は、正真正銘その本だったのか、という疑問へとつながってしまうことにだってなりかねない。

 私たちは言葉をもちいてコミュニケーションをはかってきたが、言葉は意思の疎通のためにはあまりにも脆弱な道具で、たとえば私たちが漠然と思っていることや、何かを感じていることのなかに含まれる微妙なニュアンスといったことを、きちんとした言葉で言い表すことはとても難しい。逆に言えば、何かを言葉で表現することは、そうした曖昧さや微妙なニュアンスを切り捨てて、ある一定の形に当てはめてしまうことでもある。しかも、その当てはめるべき枠は、人によって微妙に異なっているため、誰もが同じようにその意味や感覚を共有できるというわけでもない。今回紹介する本書『ほとんど記憶のない女』は、じつに五十以上もの短編を収めた作品集だが、そこに書かれているものは、既存の言葉について、私たちの大半が共有していると思っている枠組みをいったん解体することで、あらたに想起される「何か」である。

 作品数が異常に多い本書において、長いものでも数ページ、短いものはほんの二、三行にも満たないものさえあるのだが、いずれの作品においても核というべき中心が存在していない。同一人物であるはずの人にまったく違う人物の性質が混じっていたり、何人もの登場人物に同じ名前を割り振ったり、何かについて書いているはずなのに、どこかで軸がズレてしまい、いったい何を書こうとしているのかを見失ってしまったり――何の脈略も説明もないままただ物事が展開する不条理劇だったりすることもあれば、言葉が堂々巡りするだけのこともあるこれらの作品は、いずれも私たちが考えているような小説の形を大きく逸脱しているものが多く、それゆえにまずは度肝を抜かれることになる。

 物語において、その中心となるテーマがないというのは、ともすると致命的な欠陥になりかねないものであるが、逆に中心がないことで、既存の枠にあてはめられることから自由であるということでもある。そしてそれゆえに、これらの作品を読んで何を感じ、何を思うのかについては、それを読む側にゆだねられてしまっている。もし、何もひっかかることがなければ、読み手はどこまでいっても曖昧なままで終わってしまうことになるし、何かひっかかってくるものがあれば、そこからこのうえなくハマっていくことにもなる。

 表題作である『ほとんど記憶のない女』は、そういう意味では象徴的だ。日々を暮らしていくのに必要最低限のことしか覚えていない女は、しかし鋭い知性をもっているために、たとえば本を読んでいろいろ考えたり感じたりすることはあるのだが、その記憶もやがては忘れてしまい、そのときに記録したメモやノートだけが残されるとこになる。女には記憶がないために、そこに書かれたものがはたして自分が考えたものなのかどうかわからないし、仮にそのことを思い出したとしても、それが過去に考えたことと完全に一致するかどうかもわからない。そこにはたしかな事柄は何もないのだ。

 ゆえに、本書について何かを評するということは、そのまま私という存在、自分自身について評するということでもある。しかるべき中心の存在しないこれらの作品集について、あえて何かを書くとすれば、何か別のものを中心に添えるしかない。人によっては、そこに哲学めいたものを感じとるかもしれないし、別の人はそこにたしかな物語性を見出すかもしれない。そこには言葉があり、言葉をもちいて構築された小説がある。だが、そこに書かれた小説は、言葉がもつ秩序性――言葉で表現することによって、わけのわからないものを枠でくくり、秩序を与え、体系を整えるという役割からこのうえなく自由である。そして、それゆえにこそ本書は、その感想なり書評なりを書こうとする者を戸惑わせ、困惑させることになる。

 私がとくに惹かれた作品のひとつに、『自分の気持ち』というのがある。

 自分の気持ちが世界の中心というわけではないと思ってしまいさえすれば、それはもう中心ではなく、周辺にあるその他大勢のものごとの一つにすぎなくなり、そうなれば私は同じくらい重要な他のことにも目がいくようになり、もっと楽に生きられるようになるはずなのだ。

 まるで、自分自身を赤の他人であるかのようにとらえていく距離感もまた、本書の特長のひとつだ。それは、著者の個々の作品に対する距離感であると同時に、読み手と作品との距離でもあり、私たちはそうした距離感を意識せずにはいられない。ふだん、あまりにあたり前のように用いているがゆえに、言葉を客観視するというのは容易なことではないのだが、そうしたことをあっさりとやってのけているのが本書であり、そうした視点を得ることで、これらの短編集には独自のユーモアが生まれてくることになる。

 けっして万人にお勧めできるような作品ではなく、またお勧めするための言葉をもちようがないのが本書であるが、もしこれまでの読書という形に飽きているという方がいらっしゃるのであれば、あるいはまったく異なる読書世界を垣間見ることができるのかもしれない。(2009.05.12)

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