【白水社】
『空気の名前』

アルベルト・ルイ=サンチェス著/斉藤文子訳 

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 自分という個と世界との関係について、ふと思いをめぐらせてみる。

 世界というのは、私の存在とはまったく無関係にそこにあるはずのものである。それは私の生まれる前から存在しているし、私が死んだ後も変わらず存続しつづけるもの――だが、他ならぬ私という個がとらえる「世界」は、あくまで私のもっている感覚によって「そうだ」と感じとっているものにすぎない。世界は私のためだけにあるわけではないが、他ならぬ個という主観から逃れられない私にとって、世界とは自分の存在なしに成り立たない。「私」と「世界」、この境界線がいったいどこにあるのかと考えたとき、何が真実なのかといった道理とは無関係な、夢幻の境地が見えてくるように思えるのは、はたして私だけだろうか。

 ファンタジー的な世界観によって成り立っている小説は数多い。以前紹介した多崎礼の『煌夜祭』には、海の上に蒸気で浮かぶ島々という独自の設定があるし、向山貴彦の『童話物語』などは、ファンタジーの王道的な世界である。チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』の舞台となる都市の、ふたつの国家がひとつの都市を分かち合っているという設定も、ある意味でファンタジーだと言っていい。では、今回紹介する本書『空気の名前』の舞台となっているモガドールという町はどうなのか、というと、そうしたファンタジー的作品とは趣を異にしているところがある。それは、モガドールという架空の町がひとつの確固とした町として存在しているというよりは、そこに住む人たちの主観と入り混じった状態で存在している、ということであり、とくに本書の場合、モガドールはモガドールという町であると同時に、物語の中心にいるファトマという少女の町でもある、ということである。

 モガドールの住民にとって町は世界の姿そのもの、人間の外的な生と精神的な生の見取り図だった。――(中略)――「もし世界が表象する文字を選び取ることができるなら、世界全体は胡桃のなかに収めることができる」、これはモガドールで大切にされている格言だ。

 本書を評するにおいてまず断っておかなければならないのは、そのあらすじを追うことにほとんど意味はない、という点である。というよりも、およそ物語らしい筋書きというものが存在しない。あるのはファトマの変化する心の内と、それを映し出す鏡のように表現されていくモガドールの町だけである。そしてその変化する心も、ファトマ自身が意識するというよりは、祖母のタロットカード占いによって認識させられたような形をとっており、その占いの方法もまた、モガドールと密接な関わりをもっている。

 言ってみれば、本書はモガドールという架空の町、この世のどこにも存在しない幻想の町モガドールが、常にその中心にあり、そこから物語が展開していくという形となっている。そして本書を読んでいて何より心惹かれるのは、その町が醸し出す独特の雰囲気だ。城壁に張りつく塩の薄板がはがれ、微粒子として空中に舞う様子、城壁に据えられたドラゴンの石像が集めてくる町の音、月に一度、モガドールの大気を満たす赤紫色のもや、そしてあらゆる宗教の戒律から開放されるハンマーム(公衆浴場)――だがそれは、たんに町の属性として描かれているというよりは、むしろファトマの心象を反映するような形で構成されているところがある。

 つまり本書は、モガドールという「世界」と、それと対を成すようなファトマという「個」が入り混じるようにして書かれている、ということである。そこでは世界と個を切り分ける境界線はかぎりなく曖昧であり、私たち読者が目にする風景が、どこまで確固として現存するモガドールなのか、どこまでファトマの心理を取り込んだモガドールなのか、判断する材料をそもそものはじめから奪われた状態にある。そしてそれこそが、本書の大きな魅力にもなっている。

 新しい世界が彼女の身体のなかに姿を現わしたようにみえた。夜の闇が家の隅々を占めていくように、ゆっくりと彼女を占有していった。

 祖母アイシャの占いによれば、ファトマのなかに生まれ、占有していったのは「欲望」ということになっている。だが、この欲望という言葉は、いかにも占いでありがちなことに、ひどく抽象的で曖昧なものでもある。さらに言うなら、その「欲望」がファトマ自身にとって良いものなのか、悪いものなのかという点もよくわからない。だが同時に、祖母の占いによって導き出された謎めいた言葉は、その謎めいた性質ゆえに神秘的であり、また何かを探索するさいの原動力にもなる。少なくとも幻想の町モガドールを表現するものとして、これほどふさわしい要素は他にはない。

 かくして、ファトマの内面に生じた「欲望」をめぐる旅がはじまるのだが、旅といっても物理的に彼女がどこか異国の地に出かけるというわけではない。探索という行為に場所の移動はつきものではあるが、本書の舞台がモガドールであるという時点で、すでに目的地に行き着いているとも言えるのだ。では、その探索の過程がどのように書かれるかと言えば、彼女の内面がモガドールの風景として反映していくという形をとることになる。ひとりの少女の内にある「欲望」を理解するための探索――それはある意味で、誰もがその成長の過程で体験することではあるのだが、その心の内にある欲望の、神秘的であると同時にエロティックな雰囲気が、そのままモガドールの情景として表現されていく。それはまさに、ファトマという個を通して浮かび上がってくるモガドールである。

 少女から大人の女へと変化していくファトマの「欲望」をめぐる探索は、あくまで彼女個人のなかで起こっていることであり、周囲にいる人たちには、彼女が何を考え、どんな思いを抱いているのかは当然のことながら見えてこない。それゆえに、同じモガドールの住民でありながら、彼女の周囲にいる人たちは、それぞれ勝手な想像をし、また勝手な解釈で物事を判断していく。そしてそうすることによって、それはモガドールという町のサイドストーリーとしてまた語られていく。まるで無限の広がりと可能性に満ちているかのようなモガドールが、そこにはたしかに顕在している。

 けっして言葉にはならない少女の冒険は、露骨なわけでもないのにどこか艶かしく官能的で、とくに公衆浴場の湯気のなかで漂う女体の描写は、幻想的でさえあって読む者をこれまでにない世界へと導いていく。小説という表現形式でありながらどこか詩的でさえあり、ここまで独自の世界観が描かれるという点において、本書は特異な作品だと言うことができる。ストーリーではなく、幻想的な町の雰囲気を楽しむ小説として、ぜひそのめくるめく世界を味わってもらいたい。(2014.06.30)

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