【扶桑社】
『血と暴力の国』

コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳 

背景色設定:

 約束という言葉がある。今この社会のなかで、約束というものがどれだけの重みをもっているのか、正直なところ私にはよくわからない。私がまだ子どもだった頃は、あるいはもっと尊重されるべきものとみなされていたのかもしれない。今はどうなのだろう。軽んじられているように思えることもあるし、昔と変わらず大切なものとして感じるようなときもある。そもそも昔も今も、約束なんてものは何の効力もない、ただのまやかしに過ぎなかったのではないか、という気になるときも、たまにある。

 システム関係者として会社ではたらいている関係上、しばしば仕様確認書を作成し、相手に渡して確認してもらうことがある。これは、相手がどのようなシステムを必要としており、そのために話し合ったり決定したりしたこと、それからそのシステムを動かしていくうえで守るべき事柄などを書類にしたものであるが、はたしてこのような仕様確認書=約束事がどれだけの有用性をもつものなのか、疑問に思うときがある。なぜなら、会社の情勢といったものは、時ととも変化していくものであり、当初は問題なく動いていたものも、そうした変化に少しずつ軋みが生じるものであるからだ。そもそも、仕様確認書など渡したところで、相手がそれをまともに読むことなど、あまり期待できないし、何か障害が起これば、仮に非が相手にあったとしてもその対処に奔走しなければならないことに変わりはないのだ。アメリカの仕様確認書は、それこそどのような方面からの突っ込みにも対処できるよう、あらゆる事柄について網羅してあるがゆえに、それ自体が膨大な量になる、という話をどこかで聞いたことがある。過剰だとは思うが、そのいかにも契約社会的な側面こそが、約束を守るということの重みでもあるように思える。

 約束というのは、単純であればあるほどいい。だが、同時に単純であればあるほど、守りつづけていくのが難しくなる。一度約束したことを、いっさいの例外を認めることなくつづけていくこと――それは、言ってみれば変化すること、柔軟であることを拒否することでもある。そして変化しないでいることなど、およそ社会にも人間にも不可能なことだ。例外のない規則はない。だからこそ人間社会はある程度うまく機能しているという点もある。もし仮に、約束事においていっさいの例外を認めない、ということを守りつづけることができる人間がいたとしたら、その人はおよそ人間として、どこか異常な存在だということになる。

 やつと取引することはできない。これはもう一度言っておくぞ。かりに金を返してもやつはきみを殺す。やつに口答えした人間で生きているやつはこの地上にはいない。――(中略)――あれは変わった男でね。原理原則を持っているとすら言える。その原理原則は金や麻薬といったものを超越しているんだ。

 今回紹介する本書『血と暴力の国』は、読み手にある種の緊張感を与える作品である。まずその冒頭で、誰かが何かの独白をしている。そこにあるのは、独白の言葉だけだ。どうやら自分が逮捕して、死刑を宣告された少年のことを話しているらしいとわかる。少年は少女を殺害したらしい。そしてそんな少年に接することになったその独白者は、少年の態度に困惑し、理解に苦しんでいるようだ。自分には理解できない、その存在を認めたくないような何かを目の前にした男の、自分がそれまで信じてきた世界への疑惑と、なかばあきらめに似た境地――そんな独白者の思いを引き継ぐかのように、物語はひとつの事件を語り始める。1980年代のテキサス州南西部、麻薬密売組織どうしの取引がこじれた結果の殺し合い、偶然その惨劇の跡を発見し、そこに残されていた、取引に使われるはずの巨額の現金を手にした男と、その金を取り戻すべく動き出したひとりの殺し屋、という構図は、いかにもありがちな逃亡劇、クライムノベルに属するストーリー展開であるが、本書に特徴的なのは、登場人物たちの心理描写がまったくと言っていいほどなされておらず、あくまで彼らが見たもの、聞いたものを、見たまま、聞いたままに描写することに徹しているという点である。

 およそ、あらゆる感情的表現を廃した本書は、それゆえに非常にドライな印象を与えるばかりか、そこで何があったのか、登場人物たちがどのような性格の持ち主で、どのような組織と利害関係にあるのか、といった説明的文章さえまったくない。それゆえに、読者はそのときそのときのシーンからじっさいに登場人物たちに何が起ころうとしているのか――あるいは、何が起こってしまったのかを推測する必要に迫られるわけであるが、その全体像のなかば以上が見えないまま、しかしながら物語だけは進行し、その過程で何人もの人たちが殺されていく。それゆえに、本書は読み手に緊張感をあたえる作品たりえているのだが、なかばわけのわからないまま、しかし起こった出来事の結果、つまり人の死にばかり目を向けなければならない読者の思いは、次第にこの未曾有の事件を追うひとりの保安官エド・トム・ベルの心情とリンクしていくことになる。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、まるで嵐が吹き荒れるかのようにもたらされる殺戮劇に、常に後手後手にまわらざるを得ないこの保安官は、ほとんど何もすることができない。犯人を見つけられないばかりか、その殺人を未然に防ぐこともできず、またその殺し屋がなぜ人を殺すのか、その理由がわからないことさえある。それだけ、ただ金を取り戻すだけにしては、人の死が多すぎるのだ。駆けつけたときにそこに残っているのは、死体だけ。およそ町の治安を守ることを旨としている保安官として、これほどおのれの無力さを思い知らされることもない。そして、だからこそその殺戮の中心にいるシュガーという殺し屋の存在が、このうえなく不気味なものとして、読者の心に深く刻み込まれることになる。

 命は尊いものだと人は説く。だが、非常に穿った見方をするなら、そうした倫理観の裏にあるのは、死に対する恐怖だとも言える。人は生まれてきた以上、いつかかならず死を迎えることになる。死という未知のものに対していだく人の恐怖は、なかば本能的なものだ。だからこそ、人は死というものに大きな意味をもたせようとしてきた。死後の世界、天国と地獄、輪廻転生、魂の救済――だが、本書のなかで書かれる人の死は、そうした人間の積み上げてきた倫理観を根底から覆すようなものとして位置づけられる。人の命が、このうえなく軽い。それは、その死にどのような意味をもたせることもできないからに他ならない。未知のものに対して、何らかの意味を与えて自分たちのよく知る世界に引き込みたい、という私たちの願いは、本書においてはまったく通用しない。そういう意味で、シュガーのものの考え方、その言動のもととなっているものは、およそ私たちの理解を超えたところにあるように見える。だが、それは本当なのだろうか。

 なぜおとなしく捕まったか自分でもよくわからないがたぶん意志の力で逃げ出せるかどうか確かめたかったんだろう。人にはそれができると信じているからだ。そういうことは可能だと。しかし馬鹿なことをしたもんだ。それは無意味なことだ。わかるか?

 じつは本書は殺し屋であるシュガーの物語であると同時に、保安官であるベルの物語でもある。そしてこのふたりの存在は、最終的に「約束」という言葉で対極に位置づけられ、比較される運命にある。一度交わした約束をかならず守るということと、絶対だと思っていた約束を守れなかったということ――そこには、人の死への考え方と同じように、人間の一種の驕りがあるとさえ言える。約束を守るのは大事なことだ、と私たちは教えられる。それは真実だろう。だが、それが人と人とのあいだに交わされるものであるかぎり、けっして絶対の影響力をおよぼすことにはならないことも、私たちは知っている。どれだけそのときの決意が固かったとしても、時とともに人の心は変化するし、状況も変わる。そしてそのとき、あくまで約束を守りつづけることと、約束を守りきれなかったことの、どちらがより良くて、どちらがより悪いかというのは、もはや一概に判断ができなくなってしまう。

 私たち人間が必死になって築き上げてきた文明社会――それは、私たちが思っているほど強固なものではなく、ともすると容易に崩れ去ってしまうものでしかない。あるいは私たちは、心のどこかでその真理を理解しているのかもしれない。だが、私たちがあえて目をそむけてきたものを、本書は情け容赦なくさらけ出していく。そこにどんな救いがあるのか、あるいはどんな救いもないのか、ぜひとも本書を読んで考えてもらいたい。(2007.12.21)

ホームへ