【筑摩書房】
『冬の夜ひとりの旅人が』

イタロ・カルヴィーノ著/脇功訳 



 あなたは八方美人男の新しい書評、つまり、イタロ・カルヴィーノ著、脇功訳の小説『冬の夜ひとりの旅人が』に関する書評を読み始めようとしている。もっとも、あなたは本サイトの常連のひとりで、文字どおり八方美人男の新作書評としてこの文章をまのあたりにしているのかもしれないし、あるいはある程度時間が経ち、各種検索エンジンにこのページが登録され、著者名やタイトル、あるいは訳者名などのキーワードで検索した結果としてこの書評にたどりついたのかもしれない。その場合、「新しい」という言葉はもはや意味を成さない単語と化してしまっているだろうが、少なくとも、あなたが今読もうとしているこの文章が、『冬の夜ひとり旅人が』というタイトルの作品について書かれたものであることに、何の疑いも抱いていないのは間違いないだろう。
 だからもしあなたが、この書評を読んでその作品に興味をもち、本屋まで足を運ぶなりネット書店で注文するなりして現物の本を手に入れ、そしてその内容が、この書評で紹介されているストーリーとまったく異なるものだとわかったとしたら、あなたはきっと憤慨するに違いないし、八方美人男に対して抗議のメールを送りつけることさえするかもしれないことも、容易に推測できる。しかし、その後は? あなたは八方美人男が『冬の夜ひとりの旅人が』だと思っていた、おそらく別のタイトルがつけられているはずの小説を探すのだろうか。あるいは今手にしている『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めるのだろうか。どちらにしても、あなたはそれがはたして本物の『冬の夜ひとりの旅人が』なのかどうか、疑いの目を向けずにはいられなくなるに違いない。

 今回紹介する本書『冬の夜ひとりの旅人が』は、つまりはそういう作品なのである。

 まずはじめに「あなた」がいる。そう、今まさに本書を読みはじめんとしている読者自身である。じっさい、冒頭で「あなた」は本書を買い、まさにページを開こうとしている様子が描写され、その後、作中作という形で『冬の夜ひとりの旅人が』と題された別の物語が挿入される。だが、その作品がちょうどいいところまで進んだとたん、「あなた」は読書を中断せざるを得なくなる。なぜなら、その本には乱丁があり、どうやら製本の過程で別の作品の冒頭が混じってしまっているらしいことに気がつくからである。

「あなた」は読書好きな人間だ。そして一度ある作品を読み始めたからには、それがどういうジャンルの本であれ、最後まで読んでみないではいられない性格である。「あなた」は中断された物語のつづきを追いかける。だが、その結果「あなた」が手にする物語は、さまざまな理由によって以前読んだものとまったく関係のない、別の作者による別の作品の物語であり、しかもそのことごとくが途中までしか書かれていない、半端なものばかりなのだ。つまり、「あなた」が物語のつづきを求めれば求めるほど、物語のつづきは遠ざかり、代わりにタイトルも作者も異なる無数の物語の冒頭部分ばかりが増殖していくという、なんとも奇妙な状況に陥っていく。そして、いつしか「あなた」は、他ならぬ「あなた」自身が、物語の主人公と化しており、主人公として行動することを求められるようになっているのだ。

 物語には必ず、その物語を作品化した書き手が存在し、また他の作品と区別するためのタイトルが、そして物語の世界で生きる登場人物たちが存在する。「あなた」という二人称によって書かれていく、なんとも意表を突かれる出だしの本書であるが、そこにいる「あなた」なる人物もまた、厳密にいえば「読者」という、ある限定された個性をもつ三人称に置きかえることのできる作中内人物であり、今まさに本書を読んでいるであろう、不特定多数のあなたを指しているわけでないことは、言うまでもないだろう。だが、作中作として差し挟まれる『冬の夜ひとりの旅人が』は、まるで連鎖反応のように次々と別の書き手の別の作品を引き寄せ、結果として書き手もタイトルも極限まで希薄になってしまった、無数の物語の断片のみが宙に浮いた状況をつくり出すことになる。

 そんなとき、個々の物語にいるはずの登場人物たちに、いったいどれほどの意味があると言えるだろう。物語の書き手さえもが不確かな世界において、ただひとつだけ確かなのは、本書を読んでいる不特定多数たる「読者」の存在だけであり、それは必然的に、「読者」=「あなた」という結びつきを強制することになる。言うなれば、読書によってまるで自分が登場人物のひとりになったかのような気分になる、という段階を無理やり作り出してしまう、ということなのだ。そういう意味で、本書の宙返り的な発想はたしかに成功していると言うことができる。

 多くの小説の第一章の書き出しの文章の無垢な状態がもたらすロマネスクな魅惑は物語が進むにつれてたちまち消えてしまう。つまりその魅惑はわれわれの前に拡がる読書の時間への期待感とあらゆる可能性を秘めた物語の展開に接することができるという期待感にあるのだ。私は書き出しの部分だけがある本をそして全体にわたって冒頭部のもつ可能性が、まだ対象の定まらない期待感が持続するような本を書くことができたらと思う。

 はたして、作中作のどれが本物の『冬の夜ひとりの旅人が』であるのか? あなたの前に姿をあらわしたルドミッラ、あるいは「女性読者」なる女性は何者なのか? この世界に流布するあらゆる小説に手をくわえ、贋作だらけにしようとしている謎の秘密組織の目的は? そして、物語のつづきを追い求めるあなたの旅は、どこへ向かおうとしているのか? いっけんすると、著者名も作品名も意味を失った物語の断片を、「あなた」という名の糸でつなぎあわせた、つぎはぎだらけの、できそこないの物語のように思える本書だが、逆にそれらの物語は、作者やタイトルといった、物語の可能性を制限する枠をとりはずされた状態にある、と言うこともできる。人間がこの世界に生を受けた以上、けっして死という運命から逃れられないように、物語にもはじまりと終わりが必ず存在し、それを覆すことはできない。だが、もしそれを覆すような物語が存在するとしたら――物語がいつまでも終わりを迎えることなく、無限の可能性と新鮮さに満ちているとすれば、それはまさに真の物語、物語の中の物語と言うにふさわしいだろう。

 古川日出男の『アラビアの夜の種族』では、「語り」という動作が持つ変容と拡散の特徴のなかに――親から子へ、さらに多くの人々へと口伝えに語られる物語のなかに普遍性を見出そうと試みた傑作であるが、本書が目指した物語の普遍性は、言うなれば黒魔術によって歪んだ生命をあたえられたホムンクルス、つぎはぎだらけの言葉の肉をまとった人造人間を連想させるものだ。そしてその人工物を「フランケンシュタイン」のように醜いとみなすか、あるいは島田荘司の『占星術殺人事件』において、全国の素人探偵が夢想した「アゾート」のように美しいとみなすかは、ひとえにそれぞれの読者の想像力に委ねられることになるだろう。

 文学には私が力を及ぼすことのできないなにかが起こるのです。――(中略)――われわれは読むことを妨げることはできます。でも読書を禁じる法令の中にさえもわれわれが決して読まれたくはないなにかの真実が読み取られてしまうのです……

「あなた」という二人称を使う、ということは、それだけ読者を物語の世界に近づけることを意味する。だが、それゆえに読者は、「あなた」という人物に自分と共有できる何か強いものがなければその作品を受けつけないことになる。そういう意味で、本書は非常に読者を選ぶ作品である。だが、もしあなたが無類の読書好きな人間であるなら、おそらく何の問題もあるまい。なぜならあなたはきっと、本書のなかにもまぎれもない物語の片鱗を見出すに違いないからである。(2003.03.30)

ホームへ