【新潮社】
『日蝕』

平野啓一郎著 



 我々が日常であると信じるこの世界の裡に、凡そ完き事物など存在しないことにこれ以上詞を費やす積は無いが、然れど宗教的観点から視れば、唯一例外的存在として神なるものが挙げられよう。本書『日蝕』が、敬虔な一僧侶の厳格なる一人称を以って語らんとするのは、完き事物なのは果たして神だけなのか、否、抑(そもそも)神とは何なのか、と云う、極めて根源的な問題に対する挑戦であることを目的とするに外ならない。敬虔な僧侶をして錬金術なる異端的実験の顛末を語らしめると云う矛盾、然れど、錬金術の最終目的が「賢者の石」、即ち完き存在の生成であることを考慮するに、本書の構成は頗る計算され尽くされた――殆ど確信犯的な緻密さを以って練り上げられたものであるのは、否定すること能わざる所であろう。

 漢字変換が処理能力を超えているので、そろそろ普通の文体に戻すが、本書は錬金術における「賢者の石」生成の瞬間という、ただその一点のみを表現するために書かれた小説だと言っても過言ではない。唯(おっと!)……ただ、そこに込められている意味は、たんに万物を金に変えるという、その言葉からまず想像されるような俗物的なものではもちろんないし、「賢者の石」生成にいたる過程も、たんに実験室内部の出来事にはとどまらず、まさに世界全体を巨大なひとつの実験室にしてしまうほど壮大で、かつ用意周到なものである。

 本書によると、「賢者の石」を生成するには、まず石(レビス)という材料をつくる必要があるという。石(レビス)は哲学的硫黄と哲学的水銀という原質を抽出し結合(「結婚」)させることで生成され、それは両者の原質を矛盾したまま保っている形をとっている。「結婚」によって生まれた石(レビス)を一度「殺生」し「腐敗」させたのち「復活」させるという過程を、「太陽の熱に因って、鉱物的な力が強く働く特定の場所」で行なうことで錬金術は完結する。この記述を記憶していた読者は、本書のなかでおこる一連の出来事――一見すると錬金術とは何ら関係無いように思える出来事のことごとくが、上述した「賢者の石」の生成過程を踏んでいることに気づくだろう。そしてそこに、様々な形で二極の対立が含まれていることにも気づくだろう。たとえば舞台となる村の地形や村そのものの形、また、聖職者として堕落しきった司祭ユスタスと厳格に過ぎる異端審問官のジャック、男性性と女性性を備えた石(レビス)の存在……そして、タイトルでもある「日蝕」からして太陽と月という二極の「結合」を意味している。ただひとつ、唖であるジャンの存在のみ孤立しているような感があるが、本書のあちこちにちりばめられた二極の対立が、物語のクライマックスにおいて一点に凝縮されていくとき、壮大な実験の最後の布石としてその役目を果たすことになる。
 さらに言うなら、「敬虔な僧侶をして錬金術なる異端的実験の顛末を語らしめる」という本書の体裁そのものが、二極の「結合」した石(レビス)でもある。そしてそのクライマックスにおいて、「殺生」と「復活」をあきらかに匂わせる構成がある。はたして、この壮大な「賢者の石」生成実験は成功したのか、そして本書の「殺生」と「復活」によって何が生まれたのか、あるいは生まれなかったのか――それは、実際に読んでみた読者自身が判断するしかない。

 錬金術は「賢者の石」という完き存在の生成を目的としている。中世ヨーロッパにおいて一神教であるキリスト教が、錬金術を神への冒涜と判断したのは当然の帰結であるが、かつて一切を超越した神が、不完全な人間という肉と結合し、ゴルゴダにおける処刑と復活を得たという教えを顧みるに、錬金術の「賢者の石」の生成過程は、キリスト教の教えと何とよく似通っていることだろう。本書の帯にある「三島由紀夫の再来」という文句はたしかに大袈裟ではあるが、その目のつけどころと物語の構成力には、やはり感服せざるを得ない。(1999.01.09)

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