【文藝春秋】
『妊娠カレンダー』

小川洋子著 



 小川洋子の小説を読むと、私はいつも、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』を思い出す。限りなくゆるやかに流れる時のなかで、心地よいまどろみに包まれているような、あのメロディーと、小川洋子の作品が持つ雰囲気は、とてもよく似ている。

 著者の書く世界はいつも、極端なまでに全体の動きが少ない。「動きが少ない」と書いたが、それはべつに登場人物がいつもごろごろだらだらしているという意味ではなく、物語全体の流れに、いわゆるヤマ場と呼ばれるような起伏がなく、限りなく並行に近い形でただ物語が流れていく、という意味だ。けだるくなるような雰囲気の世界のなかで、登場人物たちは積極的な行動をおこすことなく、とろとろと流れる時間にただ身をゆだねているように思える。

 本書『妊娠カレンダー』では、一人称「わたし」の姉が妊娠してから出産するまでの出来事が、日記形式で書かれている。男であり独身である私には想像もできないが、妊娠というのは本人にはもちろん、その周囲の人達にとっても一大事であろうと思うのだが、「わたし」にはその事実がどうしても現実のものとして認識することができないでいる。姉がつわりになり、その匂いで刺激しないように外で食事をしなければならなくなったり、超音波装置で撮った胎児の写真を見せてもらったり、義兄が買ってきた妊娠に関する本を目にしたりと、周囲はたしかに変化しているのに、その変化に「わたし」がついていってない。じつにちぐはぐな印象が、終始本書のなかにはある。

 わたしが今、自分の頭の中で赤ん坊を認識するのに使っているキーワードは『染色体』だ。『染色体』としてなら、赤ん坊の形を意識することができる。
 前に、科学雑誌か何かで染色体の写真を見たことがある。それは双子の蝶の幼虫が、何組も何組も縦に並んでいるように見えた。
(中略)
 姉の赤ん坊のことを考える時、わたしはその双子の幼虫を思い浮かべる。赤ん坊の染色体の形を、頭の中でなぞってみるのだ。

 そして「わたし」は毎日グレープフルーツのジャムをつくり、つわりの終わった姉に食べさせる。『染色体』の形でしか赤ん坊を認識できない「わたし」が、農薬入り輸入グレープフルーツを妊婦に食べさせるという、唯一積極的な行動をとることで、それまでちぐはぐな印象を感じさせた全体の雰囲気が、不意に不気味なものへと反転する。そして彼女はつぶやく。「どんな赤ん坊が生まれてくるか、楽しみね」と。

 何かが壊れていく。まるで、熟した果実が徐々に腐敗していくかのように、決定的な何かがゆっくりと崩壊に向かって流れこんでいく。登場人物たちは、ただそれを諦念とともに眺めることしかできない。終末観、という言葉がふと思い浮かぶ。どこかの映画のように、劇的にやってくる終末ではなく、人々が気づかないうちにゆっくりとやってくる、天頂にのぼった太陽が時とともに黄昏て、やがて地平線の向こうに沈んでゆくかのような終末。そんな世界を丁寧な描写力で作りあげることができる著者の今後に期待したい。(1999.01.30)

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