【河出書房新社】
『肉触』

佐藤智加著 
第37回文藝賞優秀作 



 私たち人間が生きていくためには、たとえば食べ物を摂取するとか、きちんと排泄をするとか、あるいは適度な睡眠をとったりすることが必要である。言うまでもないことかもしれないが、こうした欲求は、私たちの体が生きていくために要求してくるものであり、そうしなければいずれ肉体は衰弱し、最後には死んでしまう。私たちの意思とは無関係に、私たちの動物としての本能はとにかく生きていこうとするがゆえに、私たちは基本的に、こうした欲求には逆らえない。私たちはこの世に生を受けたその瞬間から、自分の肉体を生かしつづけるために、食べ、排泄し、眠ることを余儀なくされているのだ。

 だがそのいっぽうで、たとえば不眠症や拒食症といった、肉体の欲求に反する症状に悩まされている人たちがいるのも事実である。もちろん、体の機能の一部に異常が生じたり、あるいは体内のホルモンのバランスが崩れてしまったりといった、純粋に肉体的な原因のものもあるのだろうが、そこには多分に精神的なもの、心理的なものが絡んでいる場合も多いという。あまりに重度のストレスにさらされる環境で生活していると、やがて胃に穴があいて体に変調をきたしてしまうように、どうも私たちは、ただ肉体の欲求にしたがって食べ、排泄し、眠るだけではうまく生きられない、複雑でやっかいな生き物であるらしい。

 心と体、精神と肉体――これらふたつの要素は、どちらも私という個を定義づける重要なものであり、どちらがより大切であるとか、より高度であるとかいった物差しで推し量れるようなものではないし、どちらかひとつが欠けてはもちろんのこと、そのバランスが崩れてしまっても、それは私たちの個に大きな影響をおよぼすことになる。個人の意思とは無関係に、とにかく生きようという欲求で動きつづける肉体と、ときにその肉体の作用さえ凌駕していこうとする、けっしてこの目でたしかめることのできない精神を抱えた自分自身を、私はときにおおいにもてあまし、途方にくれることがある。どうして私たちは、肉体と精神という、まるで反発することを運命づけられたかのように相反するふたつのものを抱えて生きていかなくてはならないのだろうか、と。

 私たちは子宮の中にいた時の記憶を持たない。もしあの時の記憶を持って生まれてくるのならば、誰もがもう少し、自分の生に前向きでいられるはずなのに。

 本書『肉触』という作品について、何かを語ることはきわめて難しいのだが、あえてひとつだけ感じとれるものがあるとすれば、それは登場人物である語り手の「私」が、自己を形成している肉体と精神のアンバランスさを誰よりも強く意識してしまっているがゆえの苦悩だと言える。このような苦悩については、たとえば金原ひとみの『アッシュベイビー』などにおいても見受けられるテーマであるが、金原ひとみの作品に登場する主人公が、心と体との結びつきが決定的に切り離されてしまっており、それゆえに肉体が感じ取る即物的な快感や痛みだけがすべてだと信じているのに対し、本書の語り手は、精神と肉体のバランス、とくに双方の成長の度合いがどうしようもなく釣り合わないことを意識している、という意味で、金原ひとみの作品とは対極のスタンスを持っている。本書の主人公は、自身の肉体と精神が切り離された存在であるとは感じていない。むしろ、そのふたつの要素は強く結びつき、お互いに関係しあうものであることを知っているからこそ、なんとかその均衡をとろうと苦悩しているのである。

 世の中の人間の大半は、おそらく肉体と精神とのバランスなどといったことをあまり深く考えることなく生きている。それでなくとも私たちは日々の生活に追われているし、だからこそ酒や博打や女といった、即物的な娯楽でうっぷんを紛らわせているのだが、本書の語り手は、そうしたきわめて現実的な娯楽とはおよそ無縁な生き方をしているようである。でなければ、以前から心臓を患っていた父の死によって思いがけず生じた長期休暇を前に「途方に暮れる」などということはありえないはずなのだ。早々に仕事に復帰するなり、それまでできなかったことに挑戦するなり、選択肢はいくらでもあるはずなのに、語り手の「私」は途方に暮れたあげく、唐突に旅に出ることを思いつき、それを実行に移したりする。しかも、旅先で何をするのかと言えば、昼間はただぼんやりと過去の時間を振り返り、夜になるとどこからともなく現われる猫が語る、おたまじゃくしの話を聞くという、どこか現実味に欠けるようなことだったりする。

 語り手の視点は、物語の冒頭から常に自身の内面を向いている。そういう意味では、本書で展開する物語世界はもともと現実味に乏しいのだが、その代わり、自己の内面と外面との境目がかぎりなくあいまいな、独自の世界観が生まれている。そう、現実における語り手の旅は、そのまま語り手自身の、精神と肉体とのアンバランスさに決着をつけるための、内面世界の旅とリンクしているのである。憧れの対象だったかつての姉、その姉と同じ遺伝子をもっていながら、その姉とまったく似ていない自身に対するかぎりない嫌悪――アイデンティティの形成に、自分以外の誰かの存在が強く影響している、という意味では、本書に収録されているもうひとつの作品『水郷に帰す君に』についても同様であるが、どちらの作品においても、かぎりなく肉体的な生々しさが希薄であるにもかかわらず、しかしその行動や意思決定に心や感情を無視した部分が作用しているように思えるのはなぜなのだろう、と強く思わずにはいられない。

 私たちの体は、子どもから大人へと否応なく成長していく。成長といえばたしかにそのとおりなのだろうが、じっさいは男女の性差があきらかになっていく、という意味では変化である。だが心のほうは、目に見えるような形で何かが変化するわけではない。なんともつかみがたい人間の精神と、その成長というものについての、ひとつの苦悩の形がそこにはある。(2004.08.02)

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