【集英社】
『虹の谷の五月』

船戸与一著 
第123回直木賞受賞作 

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 たとえば、赤信号を渡ってしまう大人たちのことを考える。彼らはいったい、なぜ赤信号を渡るのだろうか。車が来ないから? 急いでいるから? みんながやっていることだから? たしかに「なぜこんな所に?」と首をひねりたくなるような場所に信号が設置されているのは、よくあることだ。だが、もし赤信号を渡っているところを子どもに見られ、「なぜ赤信号を渡るの?」と訊かれたら、彼らはいったい何と答えるのだろうか。

 私のそんな考えは、あるいは大袈裟なのかもしれない。「いいじゃん別に。誰にも迷惑かけてないんだから」という答えが返ってくるのかもしれない。だが、どんなに小さなことであっても、それは結果として、目先の利益や合理性ばかりを優先し、モラルや信念といった、人間にとって真に大切なものをないがしろにする行為であることに違いはない。人間は弱い生き物だ。それゆえに、どうしても楽なほうへと流されてしまう。そして私は思うのだ。こうした小さな事柄に目をつむり、人間としてどうあるべきかという教育に目を向けなかった結果として、他人を思いやる想像力の欠けた、個人主義の名のもとに自分勝手なわがままを通そうとする人たちで溢れる、今の閉塞した日本の現在があるのではないか、と。

 本書『虹の谷の五月』に登場するのは、人からは「ジャピーノ」の呼ばれるひとりの少年である。もちろん、少年にはトシオ・マナハンというちゃんとした名前がある。「ジャピーノ」とは、フィリピン人と日本人との混血、という意味を持つ。トシオの父親は、母がみごもったことを知ってすぐに日本へと逃げ帰り、二度と戻ってこなかった。母はトシオが三歳のときにエイズで死に、それ以来、少年はセブ島のガルソボンガ地区という田舎で、祖父とともに暮らしている。本書は、そんな混血児の穢れなき目をとおして、どこかでたらめで薄汚れた大人たちの世界と、そんな世界のなかにあって、それでも自分の信念を貫いて生きる者たちの、熱い魂の鼓動を描いた物語だと言うことができる。

 船戸与一というと、『砂のクロニクル』に代表されるような、古き良きハードボイルドの書き手、という印象があるが、著書は今回、語り手として少年を選んだ。そして少年の視線から、ハードボイルドに生きる男の姿を浮きぼりにしようと試みている。混血児であるという、個人ではどうすることもできない事実だけで汚れた存在だと周囲から受けとめられがちなトシオ――だが、彼の目は、あらゆる不正や不条理が金の力で日常的に行なわれていく、腐れた現実をしっかりととらえている。選挙では、いかに多くの贈賄をしたかで票の動きが決定し、法を守るべき警察が金で買収されるばかりか、自らが悪に染まってしまう。他人の利益にばかり目ざとく、自分の利益になること以外のことは、たとえ自分の住む土地の将来のことであっても手を貸そうとしない大人たち――たしかに、自分たちが貧しい、というのは事実だろう。だが、それが個を捨て、悪に目をつむる理由にはならないことを、トシオは祖父やラモン、そして「虹の谷」でたったひとり、フィリピン政府を相手に戦いを続けているホセ・マンガハスといった者たちの存在から、ちゃんと学んでいるのだ。

 信念に生きる者と、欲に生きる者――こうした、ある意味わかりやすい二極の対比は、まだ金や欲といったどす黒いものに染まりきっていない少年の目を置いたことによって、よりいっそう鮮明なものとして読者の心に立ち現われてくるものである。そもそも、欲望にけっして安易に流されることなく、あくまでおのれの信念に忠実に生きる者たちは、自分のことを滅多に話すことはない。だからこそ、ハードボイルドの文体というのは、あくまで冷静な視点で、周囲の状況を確認するかのような風景描写に徹するものが多いのであるが、自分のことをまだ「おいら」と称する少年の場合、なかなかそういうわけにはいかない。目の前で人が殺されれば頭のなかは真っ白になるし、不正がおこなわれ、それか正しく罰されなければ怒りの感情を表に出してしまう。幼いがゆえにずるがしこ大人たちにつけいられ、その結果が自分の崇敬する人たちをも危機に陥れてしまい、どうすればいいのかわからなくもなる。

 そう、かつて確固とした信念のもとに、政府に対して戦いを挑んでいた新人民軍が、貧乏人から革命税を絞りとるだけの夜盗の集団と化し、大金を手に入れるために他人を誘拐し、何の罪もない人を平気で殺すような真似をする――そんな、まったくどうしようもない現実に対し、それでもなおたった一人でゲリラ活動をつづけるホセ・マンガハスの存在は、それだけで、多くの人たちにとっては忌むべき存在なのだ。なぜなら、彼らは自分たちが、主義主張もなく、人より多くの金を持ち、豊かになることだけを考えて、ただ流されるがままに生きていることの後ろめたさを知っているからだ。この世に正義はない、だから自分たちが犯すちょっとした悪など、あたりまえのことだと信じたい。だが、虹の谷にいるホセの存在は、けっしてそのことを許さない。そして、本書の舞台はフィリピンのセブ島ではあるが、トシオが見据えるガルソボンガ地区の大人たちへの視線は、そのまま私たちに向けられたものでもある。ちょうど、赤信号を無視して渡る大人たちを見据える、子どもの目と同じように。

 本書のなかで、トシオは三度にわたってホセとともに行動し、そのたびに少しずつ大人として成長していく。何もかもが悪い方向に変わっていくなかで、それでもけっして変わらずに存在しつづけるものに囲まれて、少年はぶちまけたいと思ったことをぐっとこらえ、自分の胸にとどめておくことが多くなる。けっして言い訳をせず、事実は事実と認め、言葉だけでなく行動で誠意を示す、良い意味でハードボイルドな者たちが、基本的に無駄口をたたかないように、トシオの沈黙が持つ意味が、物語が進むにつれて大きくなっていくことに、読者ははたして気がつくだろうか。そして、トシオが精神的に成熟し、真に一人前の「男」となったとき、少年の口調が「おいら」から「おれ」へと変わることに。

 赤信号を渡る、煙草を道端に投げ捨てる、人の迷惑も考えずに夜中に大勢で騒ぐ――自分たちだけが良ければ他がどうなろうと知ったことではない、と考えている人たちが、日本には溢れているが、彼らもまた、ガルソボンガ地区で賄賂の多さを地区首長選びの基準とし、自分たちの地区出身者を、汚れた仕事でエイズになったからという理由だけで追い出そうとする人々と、まったく同列であることを認識しなければならない。はたして、あなたはトシオの沈黙を、そのまま受けとめることができるだろうか。(2001.02.06)

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