【新潮社】
『夜のピクニック』

恩田陸著 
第2回本屋大賞受賞作 

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 私は子どもの頃、ボーイスカウトに入っていたことがあるのだが、そこで行なわれた数々の活動のなかでも私がもっとも嫌だったのが、「夜行ハイク」と呼ばれるものである。これは、夜を徹してひたすら目的地目指して歩くという、なんとも地味で疲れるイベントで、しかもなぜか雨にたたられることが多かった。それでも、はじまったばかりの頃はまだいいのだが、疲れが蓄積されてくるにつれて、次第に歩くこと自体が苦行のようになってきて、誰かと話をする余裕も、周囲の風景に目をやる余裕もなくなり、いつまで経っても終点が見えてこないこの歩行を、いったいいつまで続ければいいのか、と心底うんざりせずにはいられないのである。

 いったい、何のためにこんな活動をしなければならなかったのか、じつは今もよくわかっていないのだが、それでも私が内心嫌だと思いながらも、そんな「夜行ハイク」に参加していたのは、もちろんボーイスカウトの活動だからとか、同じボーイスカウトの仲間たちといっしょだから、というのもあるが、何より当時中学生だった私が、大手を振って夜ずっと起きていられる、ということに対する興奮――ふだんならけっして許されないことが許されること、自分たちが知らない夜の世界を体験できることへの興奮があったことは、たしかによく覚えている。

 同じ世界を見ているにもかかわらず、昼間とはまったく違った一面を見せる夜という時間――太陽の光によって何もかもがはっきりしていた昼とは対極にある、つまり何もかもが渾然一体となった、境界線が限りなく曖昧なものとなる夜の世界の不思議については、村上春樹の『アフターダーク』の書評でも触れたが、たしかに夜の世界には、日常の世界に属している私たちが思ってもみないようなことが起こるのではないか、と思わせる何かがある。そういう意味では、本書『夜のピクニック』というタイトルは、その作品のなかに含まれているさまざまな象徴、とくに「歩行祭」というイベントがもつ象徴をうまくまとめた、うまいネーミングである。

 昼と夜だけでなく、たった今、いろいろなものの境界線にいるような気がした。大人と子供、日常と非日常、現実と虚構。歩行祭は、そういう境界線の上を落ちないように歩いていく行事だ。

「歩行祭」というのは、正確には「北高鍛錬歩行祭」のこと。本書の登場人物である西脇融や甲田貴子が通う高校における最大の行事として、毎年修学旅行の代わりに全校生徒が参加する一大イベントのことで、生徒たちは午前8時からまるまる24時間、途中の小休止や食事休憩、仮眠などをのぞくほとんどの時間を、ただひたすら80kmもの行程を歩くためだけに費やすことになる。そして高校三年生であるふたりにとっては、このあとは本格的な受験勉強を控えていることもあり、まさに高校最後のイベントでもある。歩行祭は前半がクラスごとにまとまって歩く「集団歩行」、後半が各自が自由にゴールを目指す「自由歩行」となっており、貴子は一年のときからの友人である遊佐美和子といっしょに歩くことを約束していたが、融のほうは、膝のほうを痛めていることもあって、今年になって知り合った戸田忍といっしょに歩くかどうか、決めかねていた。そして貴子は、この歩行祭である賭けを実行しようとしていた……。

 ただ歩くだけ、という単純極まりないイベントのなかに、登場人物それぞれの思惑やちょっとした謎をいくつも仕掛けておくことで、いかにもこれから何か特別なことが起こりそうな雰囲気を高めていくその手法は、読者をその世界に引きずりこむのに充分なものがある。じっさい、本書を読み始めた頃は、自身の「夜行ハイク」のつらさを思い出し、貴子や融が歩行祭に特別な思い入れをもっているという事実に違和感があったものの、読み進めていくうちに、歩行祭がいろいろな意味で、修学旅行以上に面白そうなイベントに思えてくるのだから、物語の力というのはなかなかあなどれない。

 はたして、融は戸田との「自由歩行」をどうするのか。貴子のひそかな「賭け」とは何なのか。去年までのクラスメイトで、今はアメリカに行っている榊杏奈が葉書に書いてよこした「おまじない」とは何を意味するのか? 他にも他校の女子生徒を妊娠させた北高生徒の犯人探しや、誰も知らない生徒がひとり歩行祭にまぎれこんでいたという幽霊騒ぎ、あるいは歩行祭の最中に誕生日を迎える融にプレゼントを用意してきている内堀亮子の顛末など、いくつもの興味深い謎やイベントをかかえた本書であり、その謎を追うという面白さもあることはあるが、何より本書において重要なのは、この物語がこれ以上はない、というくらいに正統な青春小説として仕上がっている、という点につきる。

 そもそも十代の少年少女というのは、何をするにしても大急ぎで、あまり後先考えずにまっしぐらに走っていくところがあるもので、それゆえに時にとんでもなく馬鹿なことや、大きくなって赤面せずにはいられない恥ずかしい言動をとったりするものであるが、そんなふうに彼らのことを考えたとき、丸一日かけてただ歩くだけという「歩行祭」というイベントそのものが、少年少女がとりうる馬鹿な言動を代表しているようなものだとも言える。誰が誰を好きなのか、ということで盛り上がり、いつもならけっして語らないようなことを口にしたり、何か特別なことを実行しようと考えたりするのは、十代の少年少女だからこそ「青春」という表現で許されるひとつの特権だ。そして、まぎれもなく思春期の子どもたちの、ありあまるエネルギーのはけ口として機能している本書の「歩行祭」は、同時に彼らが従来身にまとっているプライドや見栄、あるいはわだかまりといった、当人さえも知らず知らずのうちに費やしているエネルギーをも奪い取り、もっとも自然な――当人の気持ちに素直な自分自身を引き出していく役割もはたしている。

 お互いに複雑な家庭の事情をかかえ、またその普通ではない関係ゆえに、どうしてもギクシャクしてしまう貴子と融――クラスメイトから「似たところがある」と言われ、一時期は付き合っているのではないか、という噂も流れ、しかも、どちらが一方的に悪いというわけでもないがゆえに、お互いに歩み寄ることのできないふたりが、歩行祭という非日常的イベントにおいて余計な体力を削ぎ落とされたとき、そこから何が生まれてくるのか。こうした物語の展開は、じつは同著者の『上と外』と同じパターンを踏襲しているのだが、『上と外』の「非日常」が、場所的にも展開もあまりにも非日常すぎたのに対し、本書が学校のイベントという、ごく身近な行事を題材としている分、青春小説としての要素が素直に前面に出てきていると言うことができる。

 ボーイスカウトの夜行ハイクはたしかにつらい活動ではあったが、今にして思えば、夜を徹して歩くなどという、意味があるのかないのかもよくわからない活動ができたのは、あのときだけだった。今の私がやろうと思っても、おそらくやり遂げることはできないに違いない。そして、世の中にはその時期にしかできないこと、その時期にやらなくては本当に意味のないことの、なんと多いことか。本書の登場人物たちは、まぎれもなく自分たちの「今」のために生きている。そして、そんな彼らの姿は、すでに青春という時期を過ぎてしまった私にとってはすばらしく眩い存在として、心のどこかを揺さぶってやまないのである。(2006.01.11)

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