【小学館】
『日輪の翼』

中上健次著 

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 中上健次の作品を語るうえで「路地」という要素は切っても切れない関係にあるもののひとつであるが、家と家のあいだにできてしまう隙間がちょうどどちらの家の領域でもない境界線に属するものであり、また正式な公道として管理されているわけでもないがゆえに、おそらくは地図上にも記載されることのない、言ってみればこの世には存在しないことになっている空白地帯、という意味合いが、「路地」の本質である。建物や壁に囲まれて日の光がなかなか入り込むことのない、狭くてじめじめして無秩序な場所――しかし、太陽の光が差すところに必ず影ができるように、社会の正式な一員として生きる人々が「家」という自身の領域をかまえる以上、その境界線、どこにも属されない隙間としての「路地」もまた、どこにでもついて回る運命にある。そしてそれは、ふだん私たちが生きていくうえでできるだけ表に出てこないように取り繕っている、自身の心の底にある後ろ暗い欲望や情念といった要素とも結びついていく。

 厳然と存在しているにもかかわらず、どこにも存在しないことになっている「路地」という大きな矛盾――中上健次の作品は、常に取り繕われ、日の当たらないところへと押しやられる社会の暗部、そして人間がかかえていく心の闇の部分にまっすぐな視線を向けていくが、今回紹介する本書『日輪の翼』では、登場人物たちが具体的に住む場所としての熊野の「路地」は存在しない。立ち退きを迫られた「路地」の住人は、否応なく社会の表舞台へと引きずり出されることを余儀なくされるのだが、長年「路地」に住み続け、そこ以外の世界についてほとんど何も知ることのない七人の老婆は、同じく路地で生まれ育ったツヨシら四人の若者らが運転する冷凍トレーラーに乗り込んで、噂で聞き知っていた神社仏閣を遍歴する旅に出る。

 盗んで改造をほどこした冷凍トレーラーに、まるで荷物のように乗せられて運ばれていく老婆たちという構図は、想像するだけで相当にシュールなものを思わせるが、それ以上に重要なのは、老婆たちにとってこの放浪が純粋な意味での旅行ではない、という点にある。旅行というのは日常から非日常への一時的な逃避であり、旅行が終われば必然的に彼らはもとの日常へと戻っていく。それは、彼らが社会のなかに自身の日常生活をつづけていくための拠点となる場所、旅行から帰る場所が存在するということであるが、それまで住んでいた場所から立ち退きを迫られた老婆たちにとって、帰るべきところはただひとつ「路地」だけであり、そこに戻れないということは、放浪そのものが老婆たちの日常へと変貌することを意味する。

 冷凍トレーラーは本来荷物を積む場所であって、人が寝泊りする場所ではない。そういう意味では、本書のなかでおこなわれている移動というのは、あってはならないことであるのだが、この「あってはならない」という要素は、そのまま老婆たちが住んでいた「路地」にもあてはめることができる。一か八かの博打好きな「路地」の開拓者が、火をつけて焼き払ったあとに小屋を建てたのがはじまりだという、何の信憑性もないある種の神話を、さも自身がその目撃者であるかのように語る老婆たちにとって、外界から遮断され、ただ道路を走りぬける振動音ばかりが轟く冷凍トレーラーの内部は、そのまま彼女たちの小さな「路地」と化していく。そしてその小さな「路地」は、常に移動し、ひとつところにとどまる事ができない運命にある。

 こうしてツヨシたち「路地」の若者たちは、老婆を抱え込んだ小さな「路地」を牽引しながら、薄暗い「路地」の狭い道から、果てしなくつづき、終わることのない道を走りつづける流浪の民と化す。行く先々で女をひっかけては、後先考えることなくセックスの享楽を味わうツヨシたちと、訪れる神社に手を合わせ、御詠歌を唱え、神々との出会いを感じて至福の時を過ごす老婆たち――ときに殴り合いの喧嘩を仕掛けることも躊躇せず、「神々さえ孕ませる」と豪語するツヨシと、そんな恐れ多いことを口走るツヨシを本気で非難する信心深い老婆たちは、いっけんすると正反対の要素を持つ者どおしのように思えるのだが、本書を読みつづけていくうちに、どちらもけっして社会的常識やルールといったものに縛られることなく、自身のしたいと思うことに忠実に生きているという点で、いずれも共通するものをもつ「路地」の人間であることが見えてくる。

 いったい、「路地」の人間とは何なのだろう。それは私たちと、何がどう違っているというのだろう。常に日のあたる場所に住み、社会の枠に自身を押し込め、人間であれば誰しもが抱えている暗い情念をひた隠し、目を向けようとしない私たちは、それが一人前の大人の態度であると思い込んでいるが、いくら表面を取り繕ったところで、物事の本質がそうやすやすと変化するわけではない。何かを押さえつければ、どこかに歪みが生じる。その歪みを象徴するものが「路地」であるとすれば、ある種「路地」の人間は、良くも悪くももっとも人間らしい存在であるとも言える。だからこそ彼らと出会う者たちは、ときに激しく彼らを嫌悪し、ときに熱狂的な好意を寄せる。それは、ほかならぬ私たち自身の内にも「路地」的な要素がたしかにあるというひとつの証左に他ならない。

 中上健次が見続けてきた「路地」が具体的にどういうものなのか、私は知らない。だが、現実に生きる場所としての「路地」、故郷としての「路地」が失われたあと、そこに淀み溜まっていた影の部分は、それできれいさっぱり消えてしまうのかと言えば、けっしてそうはならない。強烈な太陽の光にさらされた者たちは、その光を畏れ称えるか、あるいは反発するのかはわからないが、本書の奇妙な遍歴を読んでいるうちに、「路地」はけっして失われたわけでなく、全国のさまざまな場所へと飛び散っていったのだ、という思いを強く感じる。まがりなりにも老婆らによる神話さえ生み出されていた「路地」――その影の部分が消えていくという現実を受け入れるには、同じく神話による現実の再構築を必要としたのではないか。葬り去られるサーガではなく、限りなく偏在していくサーガとして、どこまでも走り続けていく物語が、ここにある。(2007.09.17)

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