【新潮社】
『錦絵双花伝』
文庫改題『面影小町伝』

米村圭伍著 



 自分の力が必要とされているときに、自身の無力さゆえに、あるいは自身の心の弱さゆえに、何の力にもなってあげられないのも哀れであるが、自分には過ぎたる力を思いがけず手に入れてしまったがために自分を見失い、まるで坂道を転げ落ちるかのように身の破滅を招いてしまうのも悲惨で、また惨めなものである。

 たとえば、私はたまに宝くじを買う。もちろん、宝くじは買わなければぜったいに当たらないわけであり、だからこそ買うわけだが、私もふくめて大半の宝くじ購入者は、まさか自分が宝くじによって大金を手に入れることができる、などと考えているわけではない。私たちが宝くじを買うのは、むしろ「もしかしたら当たるかもしれない」という期待であり、また「もしお金があったらどうしようか」というとりとめのない想像に、より現実味をもたせることで得られるちょっとした幸福感なのだ。もし万が一、宝くじの一等が当たったとしても、おそらく臆病な私はただ戸惑うばかりで、まったくもって有効な使い方ができないだろうと思っている。イギリスの哲学者ベーコンの有名な格言のひとつに、「金は良い召使いでもあるが、悪い主人でもある」というのがあるが、重要なのは力を手に入れることそのものではなく、手に入れた力をどのように、何のために使うのか、という確たる目的と、その目的を貫こうとする強い意思であり、そこにこそ人間の器がというものが測られるものである。

「いかなる力も、正しく用いなければ、それは禍々しい邪悪な力へと変化してしまう。正と邪、それを判断するだけの思慮が、おまえに備わっておるのか、と聞いておるのだ」

 本書『錦絵双花伝』は、『風流冷飯伝』『退屈姫君伝』とつづく、江戸中期を舞台とした時代小説の三作目にあたる作品であり、全体の流れとしては本書をもって完結編とする印象の強い作品でもある。今回の主役となるのは、『退屈姫君伝』にも登場したお仙――谷中笠森稲荷にある水茶屋の茶汲み娘というのは仮の姿、じつは幕府隠密御庭番の倉知政之助の先手として、諜報活動などをおこなう女忍者であるが、前作ではからすのように真っ黒な顔をしたへちゃむくれの小娘だったお仙は、故郷である熊野の隠れ里での二年間で、天女のような色白美人へと変貌をとげていた。ところが、ようやく江戸に戻ってきたお仙のその美貌に目をつけた男がいた。江戸の才人を気取る大田直次郎は、絵師である鈴木春信が創案した多色刷りの浮世絵を、江戸の次の流行として仕掛けようともくろんでいたのだが、その浮世絵にふさわしい美人画の素材として、茶汲み娘のお仙を見つけ出したのである。

 遊女や花魁といった、庶民にはなかなか手の届かない美人ではなく、あくまで身近なところにいる隠れた美人を江戸の評判娘として大々的に宣伝する、それが直次郎のもくろみだったが、とんだ迷惑なのはお仙である。人の目を忍び、ひそかに諜報活動をおこなう忍者としては、目立つことは極力避けなければならないのだが、そんなお仙の苦慮とは裏腹に、春信の浮世絵は大評判、江戸の男たちが毎日のようにお仙のいる水茶屋へ押し寄せるようになり、本来の仕事に支障をきたすようなありさまになってしまう。困り果てたお仙だったが、そんな折にもうひとり、江戸の評判娘として注目を集めるようになった女性が出てくる。

 浅草寺境内にある楊枝屋の看板娘お藤は、かつて取り潰しとなった紀州秦栖藩の武家の娘であったが、取り潰しの直接の原因となった宝刀垢付丸――何者かの陰謀によって盗まれてしまった刀の行方を追って江戸にやってきた、という事情をかかえていた。そしてその宝刀は、奇しくもお仙たち熊野忍者が長年にわたって探し求めてきた、究極の忍術会得のために必要な刀として代々語り伝えられてきたものでもあった。

 こうして物語は、お仙とお藤という、そっくりな顔をもつふたりの女性の奇妙な因縁が中心となって、かつての秦栖藩の取り潰し、そしてその遠因となった宝刀をめぐる顛末と、そこに隠されたきな臭い陰謀の真相に迫るという展開になっていく。はたして、宝刀垢付丸紛失の裏で糸を引いていたのは誰で、その宝刀は今誰の手にあるのか。お仙とお藤のあいだには、どんな関係があるのか。そして究極の忍術は会得できるのか。たくみな語りをとおしていくつかの小さな謎を配置し、読者の興味をつなぎとめつつ、徐々に大きな物語の流れへと誘導していく著者独特の手法は健在ではあるが、そこには以前まであった江戸ミステリーとしての要素、そして最後にはすべてを丸く収める大団円的なカタルシスは影をひそめ、どこか運命に翻弄され、自身の無力さを思い知りつつも、それをそのまま受け止めて生きていくしかない、とする人々の健気な姿が強調されている部分があり、物語全体の雰囲気もどこか人々の現実の生活感からは切り離された、伝奇小説的な要素が強い。その最大の要因は、前二作において登場人物たちを窮地に陥れる危機が、あくまで人間の力の範囲内で引き起こされるものであり、それゆえに登場人物たちもその困難に立ち向かい、それを乗り越えていくことができたのに対し、本書の場合、お仙やお藤を窮地に陥れるのは、彼女たちにはどうすることもできない過去の因縁や、また宝刀に宿った禍々しい力といった人外の力に属するものであることに尽きる。

 富がほしい、名声がほしい、人の上に立ちたい、大きな権力を手に入れたい――本書に登場する人たちの大半が、きわめて利己的な欲望を満たしたいがために力を欲し、それゆえにさらに大きな不幸を招いてしまっている、という因果にとらわれている。それは自身には過ぎた力を求めたがゆえの不幸であり、言ってみれば自業自得であるのだが、一度まわり始めた因果の輪は、回れば回るほどますます強く当人をとらえ、その災いを多くの人に撒き散らしていく。本書のなかで、お仙が報告した怪しい僧を、倉地政之助が何の対策も講じずに放置しておいた結果、数年後には公儀もうかつに手を出せない地位を得て大きな悪行をなすようになる、というちょっとした因果が語られる場面があるが、お仙やお藤をとらえる過去の因果も、また宝刀の力も、年月とともに大きくなり、ついには人智を超えた力をもつようになった禍々しい因果の生み出したものである。

 こうした禍々しい因果をテーマとしたときに、その因果のもとが何だったのかを突き止めることは重要ではあるが、それだけでその因果の輪を止められるわけではない。そういう意味で、本書の大きなテーマは、回り続ける因果をどのようにして断ち切ることができるか、という点にこそあると言えるのだが、それを描ききるためには、それまでの作品のような解決だけでは不充分である。それでもなお、その因果を断ち切るためにお仙が決意しなければならなかったもの、そしてそれゆえに何を失うことになったのかを知ったとき、読者ははじめて、これまでの作品とは一味ちがったカタルシスの存在に気がつくことになるだろう。

 宮部みゆきの『クロスファイア』でもそうだったが、大きな力をもつということは、同時にその力に対する責任をともなう、ということである。そしてその責任は、当人が力を得ることに対して望む望まないにかかわりなく発生するものでもある。力を求めるがゆえに力に引きずられていく者、望んでもいない力を得てしまった者――本書はたしかに荒唐無稽な伝奇小説としての要素が大きい作品ではあるが、むしろ現実にはありえない大きな力を物語にもち込むことで、別の角度からの人間ドラマを成立させることに成功した作品であることも、またたしかなことなのだ。(2006.03.08)

ホームへ