【扶桑社】
『隣の家の少女』

ジャック・ケッチャム著/金子浩訳 



 ビールやお酒などのアルコール飲料を誰かに一気飲みさせることを強要する行為を「イッキ」「イッキ飲み」、あるいは「アルハラ(アルコール・ハラスメント)」などと称するが、下手をすると急性アルコール中毒で飲ませた相手が死亡するケースさえあるこの手の行為の危険性を訴えることを主として活動している「イッキ飲み防止連絡協議会」が、1994年に作成したポスターの標語「イキシニ・ノ・ゲーム」が秀逸なのは、ひとえに「ゲーム」という単語がもたらす娯楽性が、容易にひとりの人間の死と結びついてしまうことの危うさを、このうえなく簡潔な言葉で表現しきっているからに他ならない。

 私たちは、ある種の体質としてアルコールを受けつけない、アルコールを分解する作用の弱い人がいることを知っているし、急性アルコール中毒がもたらす危険性についても認識はしている。だが、そこに「ゲーム」――とくに、大勢で参加するゲームという感覚が入り込んでくると、容易にそうした理解がどこかに消し飛んで、行為はエスカレートしていってしまう。こうした、何かの行為をゲーム化するという心理は、たんに飲み会の席だけでなく、自動車の運転をはじめ世の中のさまざまな場面で遭遇する可能性のあることで、私たちの日々の生活のなかにおいてもけっして無関係なことではない。ときに人のやる気をあおり、物事を前進させていくのに有効でありながら、ときに何の罪悪感もなく人を死に追いやる可能性も秘めているこの「ゲーム」という感覚は、人が人であるためのまともな思考や倫理感といったものが、いかに脆弱でもろいものかということを露呈する装置としても作用する。何よりも怖いのは、自分がいつこうした「ゲーム」に巻き込まれてしまうのかわからない、気がつくと、知らないうちに、すでにその「ゲーム」の参加者となっていることが、まったくありえない話ではない、ということだ。

 本を読むと、かならず何かしらの読後感というものがある。それはほんの小さな感情の揺らぎだったり、強烈な感動だったり、あるいは教訓めいたものだったりするのだが、今回紹介する本書『隣の家の少女』の読後感は、間違いなくこれまでに読んだどんな小説よりも強力で、いつまでも――それこそ何年も心のどこかでわだかまっていくものであることを断言しなければならない。ただし、その感情をひと言で表現するなら「不快感」、それも、吐き気をもよおすような不快な感情である。そして、そうした感情をいだかせてしまうこと自体が本書の最大のテーマであり、人間という生き物のどうしようもなさ、無力感、救いのなさを露骨に、感覚的に訴えていくというその手法をあらためて考えたとき、この物語を書ききった著者のどうしようもないくらいの才能を褒めたたえずにはいられなくなる。

 一人称の語り手であるデイヴィッドが、当時十二歳だった子供のころに体験したある記憶を回想するという形で進められていく本書の冒頭は、いかにも青春ものにありそうなボーイ・ミーツ・ガールの世界が展開する。ローレル・アヴェニューの田舎町に住んでいたデイヴィッドは、小川のほとりで見知らぬ赤毛の女の子と出会う。彼女はメグと名乗り、彼の隣家であるチャンドラー家と親戚関係にあるということだった。交通事故で両親を亡くしてしまったメグは、まだ怪我の癒えない妹のスーザンとともに、チャンドラー家に引き取られることになったのだ。

 隣に住むメグのことが気になって仕方がないデイヴィッドは、たしかにメグという異性に好意を寄せていたが、同時に隣家にもともと住んでいた三人の男の子たちとも顔なじみで、その母親のルースのこともよく知っていた。何年か前にデイヴィッドの母親と何かがあって、それ以来チャンドラー家に泊まりに行くようなことはなくなったが、そんなことはメグという心躍る存在の前にはささいなことだ。だがメグたちがやってきてしばらくすると、隣の家の人々の様子がどこかぎこちないことに気づくようになる。最初、男の子ばかりのところに女の子がふたりもやってきたがゆえの違和感であり、いずれ馴染んでいくだろうと考えていたデイヴィッドだったが、ある日、ルースがスーザンを相手に声を荒げ、折檻している場面を目にして動揺する。その後、彼はメグやスーザンが何度も理不尽なことを理由に責められるところを目撃し、その行為は少しずつエスカレートしていく様相を呈する。

 物語冒頭のキラキラした青春もの、という雰囲気から一変、まさしく筆舌に尽くしがたい虐待の様子が克明に描かれ続けるそのギャップ、最初は言葉だけのものであったはずの虐待が、いつしかルースを首謀者とするメグの地下室への監禁、日に日にひどさを増していく暴力行為へと発展していく様子、その圧倒的なリアリティにはくらくらするほどの興奮さえ覚えるものがあるのだが、そうした、読み手の感覚に直接訴えてくるような精神的肉体的虐待の詳細とは別に、本書において私がとくに注目したのは、メグに対する暴力行為がチャンドラー家の住人たちにとって一種の「ゲーム」としてとらえられている、という点である。このゲームという要素は、本書の冒頭部分において、デイヴィッドたちが遊びのひとつとして行なっていた<コマンドー>という名前ですでに提示されている。このゲームにおいて本当に重要なのは、遊びのルールそのものではなく、<鬼>となるコマンドーが、それ以外のプレイヤーに絶対に勝つことができない、という点であり、つかまったコマンドーが生き残ったプレイヤーに好きなようにされてしまう、という背徳的な部分である。

 チャンドラー家の人たちがメグに対して加えていく虐待が「ゲーム」という形で――それも、ルール自体ではなく敗者への罰こそが重要なゲームとしてとらえられたとき、暴力行為はとどまることなくエスカレートしていき、もはや歯止めが効かなくなってしまう。自分たちがしていることのひどさを目の前にしていながら、もはやそれを現実の痛みとしてとらえるだけの想像力を失ったかのような彼らの態度は、虐待がひと段落ついたあとに、何食わぬ顔でコークを飲み、サンドイッチを食べ、テレビを観てくつろいでいるという行為からもにじみ出ているのだが、そうした態度は、彼らが悪魔でもなんでもなく、他ならぬ私たちの同じ人間であることをこのうえなく主張するものでもある。そして、だからこそ本書は怖ろしいのだ。

 この悲惨極まりない、何ひとつ救いのない物語の語り手であるデイヴィッドは、このゲームにおける直接的なプレイヤーではない。彼にできるのは見ていることだけであり、それは私たち読者にとして同様である。もっと早くにどうにかできなかったのか、という思いは、おそらく本書を読んだ者の誰もが思うことだろう。だが、デイヴィッドはどちらの味方につくわけでもない、どっちつかずの状態からなかなか抜け出せずにいるだけでなく、ある種その立場を楽しみ、興奮を覚えているという背徳感に酔いしれてさえいる。この背徳感――デイヴィッドがやったこととやらなかったことは、いっけん世間において成功しているように見える彼を今もなお苛みつづけるのだが、それはひとえに、自分のなかにもチャンドラー家の人たちと同じものを抱えていることを、どうしようもなく知ってしまったことから来るものである。そして、デイヴィッドのこうした罪悪感は、そのまま私たち読者の罪悪感であり、背徳である。なぜなら、およそ男として生まれたものとして、メグにくわえられる数々の虐待に、やましい感情や後ろ暗い興奮を覚えない者は、誰ひとりとしていないからである。私たちはもはや、本書にがんじがらめにとらえられ、けっして逃れられないのだ。これほどどうしようもない無力感に襲われる作品を、私はほかに知らない。

 最近のニュースで、JR西日本の特急電車内で起こった婦女暴行事件というのがあったが、社内には多くの乗客がいたにもかかわらず、誰ひとりとしてトイレに連れて行かれる被害者の女性を助けようとしなかったことが話題となったことを覚えている。もし、その場に自分がいたとして、はたしてその男を止めることができただろうか。本書を読み終えた今となっては、何の臆面もなく「できる」と答えることができなくなっている自分に気づかずにはいられない。何か異常なことが今目の前で起こっているにもかかわらず、まるでその方面の感覚が麻痺したかのように受け流し、自分にとっての日常を続けている、ということが、まったくないと言えるだろうか。学生であれば教室で、会社員であれば社内で、メグへの虐待と同じようなことが起こっていないだろうか。本書で起こった出来事が、もはや他人事ではないかもしれないことに気づいてしまった、私をふくめた読者は、もうけっして以前の自分には戻れないことを、どうしようもなく実感せずにはいられない。(2007.10.15)

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