【河出書房新社】
『寝ても覚めても』

柴崎友香著 

背景色設定:

「男はいつまで経っても子ども」といったたぐいの言葉をときどき耳にするが、反論しようもないほど事実を言い当てていると私も思う。もちろん男性も女性も、子どもの頃と比べれば体格も考え方も大きく変わることについては同じだが、重要なのはそうした見た目の変化というよりは、変化する前の過去に対する執着度の違いである。つまり、上述の「男はいつまで経っても子ども」という言葉は、男性という生き物が過去の出来事をいつまでも引きずりやすい性質をもっている、ということであり、その点にこそ私も同意するのだ。

 そんなふうに書いてしまうと、あるいは「女だってずっと昔のことをほじくり返してくるじゃないか」という反論が出てきそうだが、それはあなたがその女性のことを怒らせてしまったからであり、女性が過去を蒸し返すのは、保身のためか、相手を攻撃しようという目的があるときが大半である。私自身、女性とのつきあいについてけっして経験豊富というわけではないが、おそらく女性という生き物は、男性とくらべて過去を過去として――自身の変化する前の別のものとして――とりあえず切り離して物事を考えることに長けているところがある。そしてこれは、恋愛という要素においても同じようなことが言えそうだ、と今回紹介する本書『寝ても覚めても』を読むと思えてくる。

 一人称の語り手として登場する泉谷朝子の十年間――大学を卒業して会社勤めをするようになってからの十年間を描いた本書において、彼女を取り巻く環境は、じつのところ相当に変化していっている。物語の冒頭でこそ、自分が入社した大阪の会社で働くということに、少しずつ慣れていくのだろうと思ってはいるものの、そのうちに舞台は大阪から東京へ移り、それにともなって彼女の経歴についてもけっこうめまぐるしく変化していく。あるいは、変化していくというよりは、最初の「サラリーマン」という身分よりは、社会的にはどこにも属していないような、ある種の不安定な状態に身を置いていると言ったほうがいいかもしれない。そしてその不安定さは、じつはひとりの男性の存在とのかかわりとリンクしているところがある。

 その男性の名は鳥居麦というが、その名前が出てくるのは朝子が彼と出会ってからしばらく経ってからのことである。妙な偶然か、あるいは必然かはわからないが、ふたりがはじめて出会い、なんとなく会話を交わしていくその次の場面で、朝子はすでに麦の住むアパートの場所を知り、恋人同士であるかのような関係となっている。時間としては、そのあいだに二ヶ月くらいの長さがあるのだが、一人称の朝子の意識で進められていく本書にとって、その期間は一瞬にして過ぎ去っていくものとして物語は進んでいく。物語内での時間の経過について、その期間の長さに関係なく「二〇〇五年になった」「六月になった」「一週間経った」といった淡白な言葉を差し挟んでいくという手法は、一人称であるにもかかわらず、主観である朝子の心理的描写がほとんど書かれないのと同じく、本書を特徴づける要素のひとつとなっているが、そうした手法がそのまま語り手の心理や麦との関係性について、言わず語りに迫ってくるような巧みさが、本書にはあちこちに見受けられる。

 わたしは窓枠に両腕を載せて、部屋を眺めていた。足元がぐらついて驚いた。――(中略)――ほんとうは昼寝している麦を気づかれないで眺める予定だったのにと思った。足音がした。ドアを見た。見られたドアが開いて、麦が現れた。

 この後、麦はふつうに「こんにちは」と挨拶し、それに対して朝子も「こんにちは」と返すのだが、この引用部において、朝子は彼の住むアパートの一階の部屋に、玄関からではなくわざわざ裏へまわり、窓側から中を覗くという突飛な行動をしている。だが、その突飛な行動を、本人も、麦もまったく気にしていない。しばらくその体勢のままふつうに会話がつづき、ついでのように麦が「上がったら」と勧めて、彼女を窓から引っ張り込んでいくという流れになるが、これだけを見ても、ふたりがそうした部分をすでに奇妙だと思わないほどにお互いのことを知り尽くしている仲であることがわかる。そして本書は、ふたりの恋人どうしの紆余曲折という展開よりは、恋人であるという状態――その距離感がかもし出す雰囲気を読むための作品だと言うことができる。そのあたりのことがわかってないと、本書の本当の面白さ、巧みさは見えてこない。

 唐突に差し挟まれる時間経過を示す文章は、その文の前後においてある程度のまとまった時間が経っていることを読者に明確にさせるという意図があるが、その背景には当然のことながら、朝子と麦の心理的距離の変化との連動がある。そして、読者にそんな連動を思わせるもののひとつとして、麦の放浪癖がある。もともといろいろなところを旅してまわるような生活をしていた彼は、誰にも何も言わないままふと何時間も、あるいは何日もアパートに戻ってこなくなることがあるという困った性格をしており、そしてある日、理由もわからないまま行方がわからなくなってしまう。そのときも朝子自身の心理は書かれることはないものの、「麦が帰ってこなくて、四日経った」「十二月になった」と差し挟まれる時間経過の文は、恋人がその生死もふくめ、どこで何をしているのかまったくわからなくなり、しかしその状態をどうにかして受け入れることを朝子に強いているようにも見えてくる。なぜならこの物語は、朝子と麦との出会いから始まっており、時間経過はそのまま「ふたりが出会ってから」という前置きを暗黙するものでもあるからだ。

 恋人がいなくなり、そのことにどのような決着もつけられないまま、しかし無常に過ぎていく時間――その時間が長ければ長いほど、ふたりのあいだの心理的距離感も変化していくことになる。繰り返しになるが、たとえ彼女の口からその手の話題がまったく発されることがなくとも、「麦が帰ってこなくて二年九か月経った」という時間経過の文のなかに、そしてその後に書かれる朝子の近況――大阪から上京し、アルバイトのような仕事を転々としていくという状況から、それとなくにじみ出てくるものなのだ。そして彼女は東京で、麦とよく似た男性の丸子亮平と出会う。

 朝子の心を今も占めている麦との関係性について、いったいどのような決着をつけるのか、そしてあらたにつきあい始めた亮平との仲は、最終的にどうなっていくのかについては、じっさいに本書を読んでたしかめてもらいたいところであるが、そのラスト近くの意想外な展開を省みるに、本書は恋愛感情というものについて、女性がどのような形でひと区切りつけていくのか――恋人との距離感をどこまで伸ばしていくのか、という問題から、その感情をいかにして「過去の思い出」として区切りをつけていくのかを描いた作品だったのではないだろうか。そして本人もふくめて、人というものが「恋愛」に振り回されていく生き方が、本書のなかにはある。その生き方をどのように受け止めるのかは、もちろん読者次第である。(2012.09.10)

ホームへ