【朝日新聞出版】
『ねたあとに』

長嶋有著 

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 ある物事に対して、何らかの意味を求めるのは人間独自の心理である。たとえばこの書評にしても、ある小説に対して意味づけを行なっていると言うことができる。この小説が言いたいことは何なのか、作者はなぜこの小説を書いたのか、そしてこの小説は今という時代において、あるいはその小説が書かれた時代において、どのような意味をもつものなのか――それはたとえるなら、人跡未踏の荒野に道をつくるようなものである。先に進むのに、道があれば便利なのは間違いない。だが同時に、一度道ができてしまうと、人々は誰もがその道だけを使うようになり、周囲に広がっているはずの手つかずの荒野には、なかなか踏み込んでいかなくなる。書評で言うなら、本来なら小説のなかに含まれているさまざまな未分化の要素が、書評を書くという行為によって必然的に取捨選択されてしまう、ということになる。

 意味を求めること自体は、悪いことではない。だが、意味を求めることが、その対象に対する意味の押しつけになってしまっては面白くないし、ときには対象が本来もっているはずのものを損なうことにもなりかねない。とくに小説という表現形式は、言葉をもちいるものであるだけに、容易に意味論や解釈の方法論へと流れていきがちなものでもある。本書『ねたあとに』を読み終えたときに、私がまず思ったのは、小説を書くさいにどうしてもついて回る「意味」や「解釈」といったものを、できるだけ排除していくような作品を目指した結果として、本書は生まれてきたのではないか、ということである。

「ムシバム」は、本当はこの家を撮っているのである。家というよりは、単なる「景色」を。景色から意味を――それは「素敵な」とか「淡々とした」、または「苛酷な」とか、ありとあらゆる意味を――抜き取って景色だけを、保存したいのだ。

 本書は上述の「家」のなかという、非常に限定された世界のなかで起こることを書いたものであるが、その「家」なり「ナガヤマ山荘」なりが日本のどの場所にあるのか、具体的な住所を示すものは本書のなかにはいっさい出てこない。それどころか、「ナガヤマ山荘」という名称そのものさえ、作品のなかで滅多に表記されることがなく、かろうじて東京から離れた高原――軽井沢のような所にあることがうかがえるくらいなのだが、にもかかわらず、その「家」の内部にかんしては異常なまでのディテールがあり、本の最初のページにわざわざ見開きの間取り図があるだけでなく、閉めるのにコツがいるアルミサッシや、玄関風になっているのにめったに使われない扉、ほんのちょっとの振動でも金具の取っ手がカタカタ鳴る箪笥、スイッチさえついていない部屋の電球など、およそ「家」のなかにあるさまざまなものが、まるでひとつのキャラクターであるかのように、ともすると作品中で自己主張してくるのである。

 こうした「ナガヤマ山荘」の書かれ方は、本書が虚構の小説であるという意識をおさえようという意図というよりも、一人称の語り手である久呂子自身の意識を尊重した結果だろう。ふつう、小説というものは読者にとって初めての場所や人物に対して、それとなく説明するような文章を入れるものであるが、久呂子にとってその「家」で過ごすことはもはや夏の定番であり、彼女のなかではあらためて説明するまでもなくなじんでしまっていることがうかがえる。

 東京の暑さをしのぐために、夏限定で訪れる避暑地――と言えば聞こえはいいが、別荘といえるほどおしゃれなものではないその「家」は、妙に湿気はあるし、虫や鼠は平気で入ってくる、築年数は相当に古くてトイレも汲み取り式だし、風呂も五右衛門風呂というレトロぶりなのに、いくつかの部屋は無作為に増築された関係で現代的だったりするという、どこかいい加減で無作為という印象がしっくりくる建物である。そしてそんな「家」の性質は、そのままその「家」に集う人たちにもあてはめることができる。

 作家のコモローやその父親で、語り手が「おじさん」と呼ぶヤツオ、その兄にあたるヨツオや、ヤツオの娘トモちゃんといった、ナガヤマ家の親戚とも言うべき人たちのほかに、語り手や「アッコさん」をはじめとする彼らの友人たち数人がいたりいなかったりするのだが、面白いことに、そうした人間同士の関係は、本書のなかではほとんど意識されることがない。これまでも著者の作品は、親子や兄弟といった既存の関係では説明のできない人と人との微妙な結びつきを書くことが多かったのだが、本書に関しては、ことさらそうした関係が希薄なものとして書かれているところがある。つまり、語り手にとってコモローはあくまで「コモロー」であり、ヤツオはあくまで「おじさん」という人間であり、それがすべてだという認識である。職業が何で、いつもはどこに住んでいて、誰とどのような関係にあるのか、といった事柄は、本書の舞台である「ナガヤマ山荘」のなかでは、たいして重要なことではないし、また意味もないことなのだ。

 ただ夏に「家」に集まって、麻雀牌を使った「ケイバ」や、サイコロを振って心の恋人をつくるという「顔」、独自のルールや駒を加えてより複雑になった「軍人将棋」など、その「家」ならではの遊びをやったり、それぞれが勝手にくつろいだりするだけという、ただそれだけの話である。とくに何かイベントが起こるわけでもない、日常というわけでもなく、かといって旅行や避暑といった言葉もあてはまらない時間をすごすという、本当にそれだけの話なのだが、にもかかわらずそれらの遊びの様子が圧倒的にリアルで面白いのは、それが単なるゲーム――厳密なルールにのっとって行なわれるゲームではなく、血の通った人間の試行錯誤によって生まれた、きわめて人間臭さを感じさせるゲームだからに他ならない。そしてそこには、ゲームで勝敗を決めるというよりは、ゲームをして楽しむという点が第一にある。それゆえに、たとえば「ケイバ」などはきわめてよくできたルールがありながら、ある部分についてはきわめて大雑把だったりするし、語り手も同じ遊びを東京でやってみたものの、思ったほど盛り上がらなかったと独白する。

 本書はおよそ、どこにも向かわない物語である。ほぼ唯一と言っていいイベントとして、作家のコモローが「オーエ賞」をとるというのがあるが、それでコモロー自身が人間として成長したというわけでもない。だが、いっけん無秩序で無為な暮らしのように見える「ナガヤマ山荘」での生活は、けっして無法というわけではない。ただ、従来の常識にのっとらない独自の生活があり、その生活が快適になるようなルールが厳然として存在する。そうした独自の「ルール」に、語り手が少しずつ気づいていくという発見があり、それが本書の読みどころでもある。なにより、「ナガヤマ山荘」に招かれる人そのものが、コモローたちによって取捨選択されていることを、語り手も承知している。それは「ナガヤマ山荘」という独自の空間に合う人とそうでない人がいるということであり、それだけその空間が閉じているということを意味している。

 新しさと古さ、内と外、ハイテクとレトロ、日常と非日常――本書の非常に小さな世界は、さまざまな境界線がこのうえなく曖昧でありながら、その曖昧さを持続するためにある意味縛られているという矛盾を抱えてもいる。そして本書について書評を書いている私は、ふとこんなことを思うのだ。もしこの作品を読んで単純に「面白い」と言ってくれる人がもっと多くなってくるなら、私たちの住む世界も、まだまだ捨てたものではないと思えるのではないか、と。(2009.10.07)

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