【筑摩書房】
『ねにもつタイプ』

岸本佐知子著 



 たとえば、誰かが運転する車に乗せてもらっているとき、あるいは、電車に乗って移動しているとき、ふと窓の外に目を向けると、しばしばそこに忍者の姿を目撃することがあった。

 忍者は車や電車の速度などものともしないスピードで屋根の上を併走している。屋根のない場所は走れないため、彼は屋根から屋根へと飛び移りながら走っているわけだが、田んぼのような開けた場所では異常なまでの滞空時間を見せたりするので、じつは空を飛べるんじゃないかと疑っている。そして、そんな忍者の姿を見るたびに、彼はいつも何のために疾走していて、どこへ向かっているだろうか、そして、いつも自分と同じ方向を走っているのには、何か特別な意味があるのではないか、と思わずにはいられなくなるのだ。

 もちろん、「屋根の上を疾走する忍者」というのは、私の脳内だけで再現されている妄想のたぐいではあるのだが、その妄想は、はたして私ひとりだけのものなのだろうか。というのも、本書『ねにもつタイプ』を読んだかぎりにおいて、私が勝手に妄想している「屋根の上を疾走する忍者」と似たような雰囲気を、本書はたしかにもっていると感じたのだ。

 本書はニコルソン・ベイカーの『フェルマータ』をはじめ、海外小説の翻訳を手がける方の小エッセイ集であるが、翻訳の仕事にかんする話題はほとんどない。いや、まったくないということもないのだが、ある難しい英文を訳そうと頭をひねっているときにかぎって、脳内のもうひとりの自分がなぜかコアラの鼻について考えてしまうとか、今翻訳しているアメリカの女性作家の作品には、なぜか赤ん坊の出てくる話が多いのだが、よくよく考えてみると「赤ん坊」という言葉は不気味だとか、いつのまにか話題がすりかわってしまう。

 だから、著者の仕事方面の話を期待して本書を読むと、当然のことながらがっかりしてしまうことになる。「おい、あんた翻訳家だろ。だったらもっと翻訳家らしいエッセイ書けよ」とついつい思ってしまうのだが、読み進めていくにつれて、当初の自身の思惑などどうでもよくなってしまっている自分に気づくことになる。その最大の要因は、まさに本書が「どうでもいい話」を書くことを目的としたエッセイであるからに他ならない。

 私はこの書評の枕として、「屋根の上を疾走する忍者」の話をもってきた。これはあくまで私が脳内で勝手に想像しているひとり遊びのようなものであって、もし本書を書評するという機会がなければ、おそらく生涯活字化されることもなかったであろう産物でもある。だが、本書はそんな話のオンパレードである。とくに著者の子ども時代は、それまでどうでもいいと思っていた事柄が急に気になって仕方がなくなる、ということが数多くあったらしく、自分の鼻の存在が気になったり、床のタイルの、ひとつだけ色の違う場所が地獄だと思い込んだり、走っている電車の床下には人が一列に並んでいて、一斉にせんべいを食べていると思ったりしていたそうだが、そうした傾向は、著者が大人になってもあまり変わっておらず、だからこそ本書が生まれてきたのだとも言える。

 本書はエッセイ集ではあるが、多分に著者の脳内妄想をネタとするものが多く、それゆえに一読すると現実なのか妄想なのか即座に判断がつきにくいものもあったりする。むろん、そのことを額面どおりに受け取ってしまうと大変なことになるわけだが(著者が時間をよく間違えるのは、著者自身がうっかりしているからであって、けっしてフェアリーランドの陰謀などではない)、よくよく考えてみれば、私たちもまた、誰にも話したりはしないものの、脳内で勝手な妄想を繰り広げたり、何かの失敗を自分以外の誰かのせいにしたりすることはあるはずなのだ。後ろからしつこくベルを鳴らしてくる自転車や、郵便局で割り込みをしてくるおばさん相手に、過激なバトルを繰り広げたり、ある日突然、何かの啓示のように過去のあるシーンを思いだし、「あのとき何かするべきではなかったのか」と悩んだり――あまりにどうでもいい瑣末なことなので、誰もあえて人に語ったりはしないが、おそらく誰もが一度は経験したことのあるちょっとした体験が、本書では追体験できるのだ。そして、本書に対して妙な親近感を覚えてしまうのは、まさにそうした理由によるものである。

 その親近感のもととなっているのが何かといえば、ひとえに「人間臭さ」ということになるだろうか。とくに崇高な理念があるわけではない。感動的なエピソードやこれみよがしな苦労話が書かれているわけでもない。だが、本書に書かれているとりとめもない妄想のたぐいは、誰にでも共通する人間らしさでつながっているのだ。そうした感覚は、たとえば『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』における、人間の記憶力のあいまいさに対するおかしさと似たようなものがある。

 人が生きていくうえで何の役にも立たなさそうな記憶や疑問というのは、じつはそこらじゅうに転がっていたりする。そんなふうに思えない人は、おそらく自身の人生に明確な目的があり、それに向かって邁進中なのだろう。それはそれで充実した人生ではあるが、それだけの人生というのも、どこかつまらないと感じてしまう。おそらく、著者の頭のなかには、そうした瑣末な記憶が詰まっていて、何かの機会にその記憶を釣りあげては、それを楽しんでいるのだろう。そして著者の翻訳家としての技量のいくらかは、そうした遊び心からはぐくまれたものである。

 ・・・なんだ、じゃあ本書はやっぱり、翻訳家らしいエッセイなんだ。(2009.07.22)

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