【集英社】
『眠りなき夜』

北方謙三著 
第4回吉川英治文学新人賞/第1回日本冒険小説協会大賞受賞作 

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 たとえば、私は小さい頃、キャンピングカーのようなところを住み家にしたい、といういかにも子どもじみた願望をいだいていたことがある。それは言ってみれば、木の上に建てられた「ハックル・ベリー・フィンの家」のような隠れ家にあこがれる少年の心理にほかならないのだが、どうも私もふくめた世の男どもは、そうした子どもじみた願望に対するこだわりを、いつまでも持ちつづけるようなところがあるらしい。じっさいにキャンピングカーや木の上の家が手に入ったとしても、そこで毎日の生活をおくるためにはさまざまな問題があることはわかりきったことであるし、もし私に妻がいたとしたら絶対に反対するのだろうが、そうした現実的な事柄とはまったく無関係なところで、男は夢や願望を考えてしまう傾向にあるようだ。

 ある人間にまぎれもない「人間らしさ」というものを感じることがあるとすれば、それはいったいどういうときだろうか、と考えたときに、私のなかにふと思い浮かんだのは、上述のような「こだわり」が見えてくるかどうか、という点である。たとえば美人で頭もよく、スポーツ万能で誰からも好かれている完璧な女性がいたとして、私たちはその女性に対して「すごい」と感嘆することはあっても、おそらく人間臭さを感じることはないだろう。それは同時に、私たちがその女性を自分たちと同じ人間であると思っていない、ということでもあるのだが、もし仮に、その女性が妙なクセをもっていたり、あるタレントにお熱だったりといった「こだわり」をもっていて、それをとある機会に見つけることができたなら、私たちは間違いなくその女性も「人間」なんだと思うことができるのである。

「つまんない意地を張るのね、男って」
「大事なことさ。男にはな」

 生物としての「ヒト」が生きていくのに、「こだわり」というものはまったく無意味であるばかりか、ときにその生存にマイナスにはたらきかねないものですらある。だが、およそ人間として生まれてきた以上、あらゆるこだわりを捨て、ただ合理的に生存するためだけの生が、はたして人間として生きていると言えるのかどうか。本書『眠りなき夜』のもっとも大きな特長は、その登場人物たちの圧倒的な存在感、その魅力の強さにあるのだが、そのある種の「人間臭さ」が、いっけんすると物語のストーリーとはまったく関係のない部分でたびたび姿をあらわす、登場人物たちの「こだわり」の強さから来ていることは間違いない。

 まだ30代の若き弁護士である谷道雄は、同じく弁護士である戸部良三と共同で法律事務所を経営していたが、その戸部が事務所に電話を入れたのを最後に行方がわからなくなってしまう。その後、彼の自宅から女性の死体が発見され、戸部が容疑者として警察に指名手配されるにいたり、谷は彼を弁護すべくその行方を追う決意をする。殺害された女性は戸部への仕事の依頼人であり、戸部の机から出てきたのは、一年前に山形県S市で起きた、その女性の弟の自殺に関する記事。谷は残された唯一の手がかりをもとに、S市へと向かうが……。

 谷の調査を妨害しようとする者たち、谷を事件の容疑者として捕らえようとする警察、事件の裏で見え隠れするS市最大の企業とある政治家とのつながり、そして、どうにもきな臭い雰囲気だけは感じられるのに、いっこうに見えてこない事の真相――徐々に自分の立場が悪くなっていくのもかまわず、ときに体を張った殴り合いをし、命の危険をさらしてまで事件の真相を追求する手をゆるめようとしない谷の孤軍奮闘ぶりは、まるで弁護士というよりはハードボイルドに登場する私立探偵そのものであるが、物語のなかで次々と人が殺されていき、また血なまぐさい暴力シーンを描きながら、ときに自身の痛めつけられた姿にさえ冷徹な視線を崩さないハードボイルド特有の文体を踏襲しながら、じつはそうした文体だけではけっして隠しきれない、にじみ出てくるような熱さが、本書のなかにはある。

 まず最初に見えてくるのは、当然のことながら一人称の語り手でもある谷道雄の「こだわり」である。ここでいう谷の「こだわり」とは、もちろん戸部が巻き込まれた事件の真相への「こだわり」、しいては戸部良三という人物に対していだいてきた自身の気持ちに対する「こだわり」でもある。あくまでビジネスライクに仕事を選り好みしようとする谷とは正反対に、慈善事業のような仕事にばかり手を出す戸部――裕福な資産家の家に生まれた彼のそんな行為は、谷にとって鼻持ちならない態度でしかなく、近くふたりは独立した事務所をかまえる予定でいた。つまり、ふたりの仲はここ最近はけっして良好というわけではなかったのだ。ましてや弁護士という法律の専門家であれば、同僚の失踪という、下手をすると自身の今後にも大きなマイナス要素となりかねない事態に対して、自身の保身に動いてしかるべきであるにもかかわらず、谷は警察を敵にまわしてまで、あくまで「事件の真相」を追い求める態度を崩さない。その原動力となっているのは、ひとえに非合理的で、だからこそ人間臭さを感じさせる「こだわり」であり、それゆえに私たちは、谷の言動に人間臭さをかぎ分けずにはいられないのである。

 そしてこの「こだわり」は、谷ひとりにとどまることはない。元刑事で、今は道楽のように私立探偵をしている杉田正樹は、ときどき谷から仕事をまわしてもらっている身ではあるが、それ以上に谷との長いつきあいから生まれた友情に重きを置き、その「こだわり」にしたがって行動を起こしているし、谷を追う刑事の小川や「老いぼれ犬」こと高樹警部も、刑事というよりはひとりの人間として谷と対峙するだけの「こだわり」をもっている。谷の敵ともいうべき面々も、かなりクセのある人物ばかりで、とくに庄内興業の西山などは、自分の失敗に対して男としてのけじめをつけることができる人物として描かれている。そういう意味では、ひとつの事件によって敵味方という区別がつけられてしまうものの、独自の「こだわり」に生きる小気味の良い男たちの物語といってもいいだろう。

 物語の冒頭で、谷は自分の人生を棒にふりながら、それを他人のせいにする人間への不愉快さを表明しているが、本書を読み終えた読者は、今回の事件がけっきょくのところ、人間としての「こだわり」があるかないかに大きく左右されてしまっていることに気づくだろう。そう、谷の「こだわり」がなければ、彼はこんなにもボロボロにならなかったし、あるいは被害もこれほど大きくはならなかったかもしれない。だが、もし谷の「こだわり」がなかったら、事件の真相はけっして表沙汰にはならなかった。そして私たちは、そんな彼らの言動にこそ、たしかな人間臭さを感じることになるのだ。(2005.05.12)

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