【講談社】
『ネコソギラジカル』

西尾維新著 



 私は何より物語というものが好きで、また私たちが生きるこの世界は数多くの物語的要素に満ちているとも思っているが、それでもなお、この世界そのものがひとつの物語、あるいは物語の一部であり、自分がその物語の登場人物のひとりだと思っているわけではない。なぜなら自分は、けっして他の誰とも取り換えのきかない、まぎれもない自分自身であり、自分の言動は自分自身の自由意思によって選択した結果であるという思いをもっているからだ。そしてそれは、自分が自我をもつひとりの人間であること、自分自身を語り手とする、自分だけの世界の主人公であるということに他ならない。もし私の背後に何か大きな物語があり、自分がその登場人物のひとり、何らかの役割を果たすための存在にすぎないのであれば、そもそも私が感じとっている主観、自分が選択し、選びとってきたのだという自由意思は、ただの幻想にすぎないということになってしまう。

 ミステリーというジャンルにおいて、探偵役をになう登場人物は、物語のなかで起きた事件を解決するという役割を背負わされた記号であり、それゆえに物語にとって必要不可欠な存在であるが、物語内の世界を生きる登場人物たちにとって、物語進行上の役割というものを意識することはない。もし意識しているということであれば、たとえば殺人事件の真犯人は、自分の犯行がいずれ探偵によって明るみに出てしまうことを承知で、自らにあたえられた役割をはたした、というなんとも奇妙な事態が露呈してしまうことになる。それは言ってしまえば、私たちにあるはずの個性、自分を主役とする物語の否定であり、私たちが運命の奴隷であることを認めることになってしまう。そして何より、そうした個人の物語どうしがひしめきあい、ぶつかりあうこの世界というものは、物語ほど秩序立っているわけでも、整然としているわけでもない。

 本書『ネコソギラジカル』は、『クビキリサイクル』からつづく「戯言シリーズ」の最終巻であり、語り手の過去を含む数々の伏線の回収、『サイコロジカル』あたりから見え隠れしていた真の敵西東天との決着、そして何より「いーちゃん」こと「ぼく」と「青色サヴァン」こと玖渚友との関係の清算など、いろいろな意味で物語の最後を飾るにふさわしいボリュームをそなえた作品であるが、そうした物語としての要素はとりあえず置いておくとして、本書を読み終えて私があらためて思ったのは、本書もふくめたこの「戯言シリーズ」が、いずれも典型的な物語構造を極端なまでに意識していながら、その展開をそのまま踏襲するのではなく、物語の枠そのものをズラしていくことで、独自の物語世界を構築していった、という点である。

 たとえば、本シリーズの第一弾である『クビキリサイクル』では、絶海の孤島で密室殺人が起こる。それは、その展開だけをとらえるなら、ハウダニッドをテーマとするミステリーとしては典型的な物語構造を成すものである。だが、そのなかで本来探偵役となるべき「ぼく」は、決定的に探偵としての役割を放棄した登場人物、という位置づけを与えられている。ミステリーをミステリーたりえる物語構造のなかで、言ってみれば「ぼく」の存在のみが異質であり、じっさい彼は中途半端な謎解きしか披露せず、その締めを「人類最強」哀川潤にゆずることになる。

「ある島に、行きました。天才が集う島でした。そこには―― 一人の、人殺しがいました。彼女の眼中に――ぼくはいませんでした。ぼくは彼女にとって、天才の付属物であり、ただの単なる不確定要素でしかなく、そして予定調和の一部品でしか、ありませんでした」

 本シリーズにおける「ぼく」の立ち位置として、ひとつはっきりしているものがあるとすれば、彼が「戯言遣い」であるという一点のみである。この「戯言遣い」という要素、シリーズが進むにつれてある種の特殊能力のように扱われていくのだが、その本質は「本来あるべき物語の流れから、自分自身を外す」というのが正確なところだろう。物語内の登場人物でありながら、そこに決定的にかかわることをしない――そのために彼は戯言を駆使し、その結果物語は、本来あるべき物語とは微妙にズレた方向へと進んでいくことになる。少なくとも、私たち読者はその「本来あるべき物語」というものを意識せずにはいられない。その枠のずらし方の絶妙さこそが、本シリーズの大きな特長のひとつであり、その要素がしばしば、本シリーズの物語を、まるでメタ構造をもつものであるかのような錯覚を引き起こすことにもなる。

 ここでいう「メタ構造」とは、物語の外にある世界、というのとは少しばかり異なる。この「戯言シリーズ」の登場人物たちのほとんどが、私たちの知る現実世界ではありえそうもない才能や能力をもった者たちばかりであり、そういう意味で彼らの存在は、まったくといっていいほどリアルなものではない。それは、むしろ物語を成立させるための役割をあたえられた「記号」、という見方をしたほうがすっきりするものさえあるのだが、しかしながら、その「リアルでない」「記号」という感覚は、あくまで本書を読んでいる私たち読者のものであって、登場人物にとっては、その物語内の世界こそがすべてであり、その外にさらに大きな物語があるなどと意識しているわけではない。彼らは彼らなりの生を生きているのだ。

 だが、「ぼく」という存在は、そこにあるはずの物語の流れに決定的なかかわりをもつことを拒否している。そしてその属性ゆえに、物語世界内でもこのうえなく孤立しつづけなければならないという運命を背負っている。この、いかにも虚構めいた世界観、虚構めいた登場人物と、そこから微妙にズレた立ち位置にいる語り手との、つかんでいる世界の微妙な差異が――物語内の世界に生きていながら、まるでその外から世界を眺めているかのような語り手の視点が――引き起こす、擬似的な「メタ構造」だ。ゆえに「ぼく」の立ち位置は、むしろ私たち読者の物語に対する立ち位置に近い。違いがあるとすれば、「ぼく」は、にもかかわらず、物語世界の住人以外の何者でもないし、そこらか逃れることもできない、という点である。

 この「ぼく」の性質、「戯言遣い」の属性ゆえに、シリーズそのものは進むが、彼自身のことについては、いかにもなほのめかしがあるにもかかわらず、いっこうに進展もしなければ、過去の出来事があきらかにされることもなかった。その「進まない」「関わらない」、あるいは「関われない」という属性に真正面から挑戦する者として、西東天というキャラクターが登場する。そういう意味において、「ぼく」と西東天は、物語における停滞と加速、物語が「意味もなく続いていく」ことと、物語そのものを「劇的に終わらせる」ことを象徴するキャラクターであり、まさに対極に位置する者でもある。西東天が「ぼく」を敵だと認定し、彼を倒すことで「世界の終わり」を見ることができる、と考えたのは、一見奇妙な論理ではあるが、他ならぬ「ぼく」が語り手であるという一点において、じつはこのうえなく的確な判断だと言える。なぜなら、「ぼく」が語り手である以上、「ぼく」の死はそのまま物語の終わりを意味するからである。そして、ここにもまた擬似的なメタ構造が見えてくる。

 繰り返しになるが、「ぼく」も西東天も、そして他のキャラクターたちも、自分たちの生きる世界はこの「戯言シリーズ」のなかの世界、物語内世界だけであり、そことは別の世界があるなどと考えてはいない。そしてこと「ぼく」という語り手を通じて感じる枠のズレ、錯覚としてのメタ構造は、裏を返せば「ぼく」の現実逃避に他ならない。それこそ、はっきり言葉にしてしまえば身も蓋もないものであるが、その身も蓋もない状態を、まさに戯言によっていかにも物語的な要素に見せかけてしまっているのが、本書を含む「戯言シリーズ」である。

 西東天の策略によって物語上の時間が加速していき、それとともに「ぼく」のなかの時間もまた、動きはじめずにはいられなくなる。けっしてとどまってはいられない状況のなかで、「ぼく」は過去と向き合い、現在をとらえ、そして来るべき未来へと目を向ける。探偵という記号が、殺人事件によって殺された名もなき被害者に、まぎれもない人間としての意味をもたせるためのものであるとすれば、戯言遣いたる「ぼく」が成そうとしてきたこともまた、同じような意味合いをもつことになる。つまり、物語を進行させるための「記号」にすぎない登場人物たちとのかかわりによって、彼らをまぎれもない人間、自分と同じ世界を生きる人間としての意味をもたせるという役割だ。そしてそれは、当然のことながら自分自身のことについても同様である。

 物語へのかかわりを拒否する者と、物語の因果から追放された者、人類最強と人類最終、そして「ぼく」と玖渚友の、停滞した関係――シリーズを通して残されていた謎や伏線に決着をつけ、ひとつの物語としての完結と、さらにその先へとたしかに続いていく、物語世界内の登場人物たちの生き様をぜひとも記憶にとどめておいてほしい。(2008.06.16)

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